【鑑賞日記】突然ですが
外国人参政権と中国について


例えば去年、こんなこともありましたね。

青山繁晴氏 国籍法改悪を語る

参議院法務委員会
平成20年11月18日当時
澤雄二 (公明) 委員長
千葉景子(民主)理事
松岡徹(民主)理事
松村龍二 (自民) <正字>理事
木庭健太郎(公明)理事

河野太郎(自民)と千葉景子(現法務大臣)を頭にした有名な闇法案の一つで、国内ではほとんど報道されませんでしたが、国外では当時の「世界10大ニュース」にランクインしたほどの出来事でした。
DNA鑑定を頑なに拒絶した理由はなんだったのでしょうね。


それはこれでしたね。

2009年2月のニュース


「ほれ、見たことか!」
ではなく、何人か捕まってしまうことは大前提として、せめて捕まってもローリスクにすることに大成功した法案なんですね。
中国人の人海戦術によってチベットやウイグルが侵略、浸食されていった経緯を考えると、現在進行形で行われているこういった出来事に不安を抱かずにはいられません。

ゆっくりと知らない間に、けれど確実に何かが迫ってきています。
極端に日本人の生活がおかしくなることはないでしょう。例えばネットにつながりにくくなったり、徐々にいろんなものの値段が高くなったり、なんだか精神的に窮屈な感じになってきたり、で、一方その裏側では、なぜか外国人や少数民族や差別・人権に対する権利や補償制度が充実してきたりと、そんな感じだと思います。
日本人を眠らせたまま、決定的に身動きをとれなくするまでは、どんな長い時間だってかけてきます。中国とはそういう大計を用いる国ですからね。

さてさて…

ねえ。

民主党ってのは、思いっきり売国政党ですから、今回政権をとったことによって、今まで隠れていた売国奴たち(公明党やら自民左派やらマスコミやら)が雨後の竹の子のように彼らにくっついて来ます。
つまり民主政権は確かに危険だけれど、売国奴ホイホイでもあるわけです。
この惨状を見定めつつ、どれほど戦後日本がおかしな国家であったかが顕在化するのです。
そして、そんな中でも今の平和で豊かな国を維持できている日本人の独特な精神性というのが改めて、日本人の中で評価され、浮上するんじゃないかと私なんかは思います。
その精神性が浮上し形になって現れ、ついには売国奴ホイホイを駆除したときに、日本人の新たな道ってのはできるんじゃなかろうか。
民主政権の存在意義というのは、きっとそのようなところにあるのだと思います。

ま、こういうふうに考えちゃうと、まるでチキンレースだね。
でもそういうことです。

おしまい
# by iwayu0507 | 2009-11-16 17:48 | □鑑賞日記 | Trackback
【鑑賞日記】NHKに電凸、だってさ
下記の5日と今日(10日)の国会中継は、NHKでも放送されなかったそうです。
NHKは事前に国会質疑の内容が分かるため、恣意的に放送をしなかったようで、その基準や明確な理由はないそうです。あくまでNHK側の判断ということらしいです。
5日も10日も外国人参政権、安全保障・危機管理問題や小沢一郎の「政治と金」の問題など、重要な問題が追求されました。

おじさんがNHKに電凸しております。



さらに5日夜のニュース番組では、「鳩山の献金問題だけ」を取り上げたそうです。他の議題は「報道しない自由」により友愛されたようですね。(マスコミ的には外国人地方参政権がタブーなのかな?よく分かりませんが、正気の沙汰ではありませんな)
例えばこうやって、国民が知らないうちに様々な闇法案が通っていくんですね。

なんとも奇妙な話です。
# by iwayu0507 | 2009-11-11 04:13 | □鑑賞日記 | Trackback
【鑑賞日記】総理の話でも聞いてみようか
最近、すっかり政治に興味がなくなった私です。
久しぶりに国会中継でも見てみようかと思います。
私はテレビをほとんど見ないので分かりませんが、地上波では放送されなかったと聞いています。
39分ほどの動画ですが、とても分かりやすく面白い作りになっていますので、未見の方はお付き合いくださいませ。
テーマは「愛」について、外国人参政権、安全保障・危機管理問題、拉致問題、夫婦別姓、おまけとして、みずぽたんご乱心の巻です。


平成21年11月5日予算委員会・稲田朋美(自由民主党・改革クラブ)


皆さんはどうお感じになりましたか?

そういえば民主党の看板政策の子育て給付(だっけ?)には国籍要件がないんでしたよね。
なんだかいろいろと気色が悪いですな。
# by iwayu0507 | 2009-11-09 04:09 | □鑑賞日記 | Trackback
【鑑賞日記】  少 女
オリオン座流星群観ましたか?
私は昨日地元の河川敷で一滴だけ見られました。

わざわざ車で来たような若いカップル、老夫婦、近所のおばさん、自転車によっかかった若い女性、土手に寝転んだ若い男性、道の真ん中で立ち止まっている若い女性、自転車をとめた二人の女の子、残業帰り風の若いサラリーマン、、、

人が空を見上げてる姿って、なんであんなに美しいんでしょう?
流れ星よりもそっちのほうが素敵だと思う私です。

だってさ、花火とかそういうイベントじゃなくってね、こうやってある一時期だけ、限定でさ、たくさんの数え切れない人々が自主的に、自主的に空を見上げてるって思ったらさ、なんだか感極まってしまうんだよ。泣いちゃったよ歩きながら。空はねえ、思い出も運んでくるからねえ。なんだかね。乙女だねえ。老人かねえ。

と、いうわけで、こんな曲が聞きたくなりました。
どうぞ皆さんも思い出に浸りながらお聞きください。

斉藤由貴さんで、「少女時代」。





# by iwayu0507 | 2009-10-22 23:45 | □鑑賞日記 | Trackback
【鑑賞日記】
半年前の講演会だけど、見てたら引き込まれました。青山繁晴さんはすげえな。
有名な「一杯の冷たい水」の話は何度聞いても胸に響きます。心の奥の熱いものが掘削されるような感じです。

お時間あったら、一時間ほどですけど、一緒に観ていきませんか。

国益を考える講演会 平成21年3月22日 長良川国際会議場
登壇者 青山繁晴









■形勢観望を決め込んで得をするまで待ってる人は、自ら損を買って出る人物に薄ら笑いで応えます。
その薄ら笑いは、どうやらその周囲では「頭がよく見える」らしいのです。
その周囲で価値があるとされる「得」というものに関心がなければ、別にたいして何とも思いませんが、おこがましくもその価値をこちらにも押しつけてくるならば振り払ってやらねばなりません。

こちらにはその価値を駆逐しようという意思はありません。
「それ」があって、「これ」があって、「ここ」があるのですから。

ただ一つ違うのは、「それ」と「これ」は決して単独で立っているのではないと、「これ」は思っている、「これ」はそういう立場である、ということだけです。

■銀河系で高名なヤン・ウェンリー提督は平和に関してこんなことを言った。

<恒久的な平和なんて人類の歴史にはなかった。だが何十年かの平和で豊かな時代は存在した。
 要するに、私の希望はたかだか、この先数十年の平和なんだ。>

ほんの先でいい、自分の子供や孫の世代が少しでも生き生きできる世界を夢想し行動する。現にそうやって損を買ってきた人がいたから、今の「ここ」がある。

簡単に世界平和を叫ぶ政治家などは要らない。
そんな輩は反戦芸術家にでもなればいいのだ。

青木直人さんは先日の講演でこう言った。
「政治家に言えることはただ一つ、死ね、ということです」
# by iwayu0507 | 2009-10-20 05:28 | □鑑賞日記 | Trackback
【鑑賞日記】青木直人さんのライブトーク
■今日は新宿ロフトプラスワンで青木直人さんのライブトークを観に行きました。

青木直人さんは、

<日本を代表する中国ウォッチャーで、既存メディアが伝えない中国の闇の部分、対中政府開発援助や中国共産党の党内力学、中国に迎合的な言動を繰り返す日本の政治家・財界・官界・マスメディアの裏の素顔などについて積極的に発言している。産経新聞の古森義久などと並び対中ODAの実態を克明に取材した数少ないジャーナリストでもある。小泉純一郎が2006年の終戦の日に公約通り靖国神社を参拝した際、中国政府がその報復措置としてNHKの国際放送を中止に追い込んだ事実を明らかにしたのは青木が初めてである。(wikiより)>

という方で、圧倒的な情報量とリアル・ポリティックスに基づいた分析に定評があります。
今日のライブに関わらず、青木さんの話は常に情報量が多く、たまにクラクラすることもあるのですが、実のところ僕が一番好きなのは、何よりも青木さんの青白く燃える精神のマグマだったりします。

■「写真撮らせてください」とミーハー心をくすぐられたのは木村多江さん以来ですが、「その方の存在が今の私にとって有り難い」と感じると、ついつい恥ずかしげもなくお写真をお願いしてしまいます。どことなく神社でお守りを購入するときの気分に似ています。


ブルーリボンが輝いております。てか、私、ひげ剃ってけばよかったよ。


■先日、中川昭一さんが亡くなりまして、実は丸一日泣いて過ごしたんですけど—泣いたのはいんだけど—どうもそんな自分を訝しがる私もいて、そんな私の直感的衝動が、今回ライブに足を運んだきっかけになりました。おそらく左や右に横揺れしている振り子を落ち着かせたくなったのでしょうね。青木さんの言論は、私にとっては「微振動」な感じがするんです。例えば勢いづいたブランコをゆっくり止めるときの要領に似ていて、今の自分には必要な刺激だと思えました。ちなみに「微振動」ってのは、相当根性のいるスタンスなんですけどね。

■当たり前に答えなんかなくなった今の時代、子細な現状分析を聞いていると、「じゃどうすれば良いの?」という疑問は自然に出てきます。予言者を求めるのはカオス状態の常ですが、むしろそのカオスに留まることこそ今は重要なんじゃないかと私なんかは思うのです。だけど通常、カオス状態というのはあんまりにも苦しいから、とにかく前へ前へと進もうとしますね。

「明るく前向きに、なんだって自分の受け取り方次第さっ!」

もちろんこれは「生きている人間」の知恵で、十分耳を傾けるべきことですが、果たしてそれは本当に前進しているのかと疑問に思う私がいます。時には停滞こそ前進じゃないのか、絶望してこその前進じゃないのか、と思うのです。
カオスの中に我慢強く留まり、焦って予言者にならないようにしながらじっっっと見つめている、あるいはそのカオスに刺激を投入して変化させようとする行為は、「あっちだ! みんなであっちにいこうぜ!」と脳天気に予言者ぶる輩よりずっとずっと前向きのような気もするのです。

まあでも耐えられないんですよね、カオスは、普通。

だからと言って、「偽物になりかかっている本物」と「本物になりかかっている偽物」の二者択一なんて虚しすぎるし、その虚しさにまた絶望するのも、普通は虚しく思えます。思えるけれど、

「まずはちゃんと絶望しなさいよ、話はそれからだ」

今日のお話で、私はそんなメッセージを受け取りました。

今はもはや「選択」という単純な前進ではなく、「イデオロギーが止揚されている真っ只中」であり「now loading…」状態のような気がします。ただし、そこに留まっているだけで、しっかり自分の持ち場で働いてなければ、終いには再起動されてしまいます。
てかまあ、正直いって再起動を望んでるんだよな、僕も含めて。不安に負けて踏ん張りが効かなくなるんだ。

ここで不意に、うちの大家さんが言ってくれた言葉が脳裏に浮かびました。

「あなたの一番辛い場所ではじめなさい」

またはニーチェのこんな言葉も、

「ひどい人生でも、もう一度!」

うん。そうなんだよな。

とにかく今日は観に行ってほんとよかったよ。

■「どう? ちゃんと撮れた?」「せっかくなんだから」と、いろんな場所で何枚も撮影させてくれた青木直人さんの飾らなさに改めて感謝いたします。やんわり握手にも人柄を感じました。

■ライブのあと、田端から日暮里まで歩いて帰りました。
道中、西日暮里の路地の真ん中で、20歳くらいのカップルがキスをしていました。
その真横を通り過ぎた私は、はるか昔、同じような場所で同じようなことをして通行人に見られたなぁと、目を伏せてニコニコしちゃいました。
「わかる、その気持ちわかるよ」と思いながらも、今の自分がかつての通行人Aを演じていることが、なんだか不思議でした。

そっと心の中で手を合わせ、「今日は有り難いものばかり見せて頂いている」とほっこりして帰宅いたしました。


おしまい
# by iwayu0507 | 2009-10-11 23:58 | □鑑賞日記 | Trackback
【鑑賞日記】落語を一席
素人落語だそうですが、よくできてました。面白かったです。
ちょっと一緒に見ていきませんか。

落語『マスゴミ』 
前編 麻生たたき 1/3



後編 盛者必衰 1/3



朝日屋



毎日屋


素晴らしいですね。
# by iwayu0507 | 2009-10-08 01:03 | □鑑賞日記 | Trackback
【小言日記】どぉとくぅ〜なんて【鑑賞日記】
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「心のノート」廃止も 民主反対で 背後に日教組の意向
文部科学省が小中学生に配布している道徳教育補助教材「心のノート」が、廃止になる方向だ。道徳心育成を重視した新教育基本法を踏まえた新学習指導要領実施に備えて今年3月に改訂されたものの、日教組の意向を受けた民主党が廃止を求めているためだ。子供の規範意識低下が指摘され、道徳心養育の重要性が増す中、民主党政権で教育は時代の要請に逆行する懸念がある。(小田博士)
 「心のノート」は、平成12年5月の西鉄高速バス乗っ取りなど、少年による重大事件が相次いだことを受けて、道徳教育を充実させるために文科省が作成。全国の小中学生全員を対象に、約500万部を無償配布している。子供の発達段階を踏まえ、小学校低、中、高学年用と中学校用の4種類がある。
 新学習指導要領の内容を反映した改訂版は、ページ数や記述欄を拡充した。小学1、2年向けでは、うそや悪口など「してはならないこと」をイラストで説明。中学では「日本人としての自覚」を見出しに掲げて、世界貢献の重要性を説いている。全学年で決まりを守る大切さを強調するなど、規範意識を自然に身につけさせる内容だ。
 一方、民主党は今年4月、文科省予算を検証した際に「全国配布は乱暴だ」などと問題視。7月に無駄撲滅のための政府全体の予算事業検証の中で、「廃止」と分類した。鳩山政権では、この予算検証を担当した国会議員がそれぞれ副大臣、政務官に就任した。

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無駄撲滅、なんだってさ。
こういうの↓無駄に分類されちゃうのお?

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「心のノート」改訂、小1から「働くことのよさ」を
 文部科学省が全国の小中学生に配布している道徳の副教材「心のノート」の改訂版が13日、公表された。
 小学1、2年向けで「働くことのよさ」を新たに盛り込み、全学年で「決まりを守る」大切さを強調するなど、4月から道徳で先行実施される新学習指導要領の改定内容が反映されている。
 小学1、2年の「大切なそれぞれのしごと」では、「一生けんめいしごとをすると気もちがいいね」「みんなだれかのやくに立つようにがんばっているんだね」と記述。3、4年では「自分のよいところはどこだろう?」も新項目として盛り込まれた。
 中学では「日本人としての自覚をもって」との見出しとともに、昨年の日本人ノーベル賞受賞者や北京五輪の写真を掲載し、世界に貢献する必要性を説いた。
 「心のノート」は平成14年度から配布。翌年の調査で使用率は小学で97%、中学で90%に達したが、実際の活用の度合いはばらつきが大きいとみられる。今回の改訂は記述欄を大幅に増やしたのも特徴で、文科省は「教室での積極的な活用をうながしたい」としている。

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こんなもん無駄なんだってさ。
道徳なんてさ、「教育勅語」の復活なんだってさ。日本の教育勅語を模範にして取り入れてる国っていっぱいあるらしいけどね。
日本人の誇りを持たせることは「教え子を戦場に送る」ことにつながるんだって。

気持ち悪いね。


「教員免許の更新制度廃止へ 民主・輿石氏が明言」だって。ですよね。そういうことしますよね、当然。

03.06 民主党・輿石参院議員会長と日教組



この政権になって一番打撃を受けるのは教育だなんてことは誰だって分かっていたことです。「子供の未来」より、「自分の今」を選んだ結果ですもの。

つまんないなあ、こんなニュースにかかずらいたくないよ、バカんなる。
明らかにおかしいことばかりが、濾過されずに垂れ流されてる。
テレビじゃ薄ら笑いばっかりだし。

例えば中川昭一氏は、その発言と行動によって立派な濾過効果を社会に及ぼしていました。

<中川氏は日教組に対し「日教組の一部活動家は(教育基本法改正反対の)デモで騒音をまき散らしている」「(デモという)下品なやり方では生徒たちに先生と呼ばれる資格はない。免許剥奪だ」と、その活動を強く批判している。 >


「ほんと…やだねえ…」、ってカイ・シデンよろしく斜に構えちゃいますよ。

てか思いません? このイヤあな雰囲気。
私にゃ「薄ら笑い」で要約されちゃうんですけどね、いろんな分野が。

おしまい

参考動画です。一緒に鑑賞してみ〜ましょ。

桜井裕子氏「フェミニズム思想に隠された悪意」を 語る



「日本の教育を考える」チャンネル桜 闘論!倒論!討論!平成20年09月04日・05日放送
# by iwayu0507 | 2009-10-05 02:38 | □鑑賞日記 | Trackback
無題






















# by iwayu0507 | 2009-10-05 01:41 | □岩崎裕司の日記 | Trackback
あまりにも痛い訃報

2009年も多くの立派な方々が鬼籍に入られましたが、今朝の中川昭一氏急逝の報には、正直動揺を隠せません。本当に日本の未来を真剣に考えてくれた数少ない国士の一人でした。

でしたじゃないよっ、これからもだったよ!!

残念で仕方ない。信じられない。マスコミの下劣極まる数々の報道に屈せず、気丈な奥様に支えられ、「がんばれ、日本一!」って僕もそう思ったよ。「待ってるよ!」ってそう思ったよ。「帯広、十勝のブウァァァァカッ!」って思ったよ。

中川昭一氏は、応援したい気持ちにさせてくれる希有な政治家の一人でした。
言葉がつまります。喉のあたりが熱くなります。
郁子夫人はじめ、ご家族の心中を思うと胸が張り裂けそうです。








「IMFストロスカーン 日本による貢献と融資は、人類史上最大の功績」







※ご存じの通り、民主党、公明党、自民党左派などは、この法案を強烈に推進しています。先般、法務大臣の千葉景子は就任挨拶の折りに改めて人権侵害救済法案の成立に強い意欲を示しました。



衷心より哀悼の誠を申し上げます。

岩崎裕司
# by iwayu0507 | 2009-10-04 15:51 | □岩崎裕司の日記 | Trackback
しずかな喧噪




鳩山首相を見ているとどことなく父を思い出す。
うちは鳩山由紀夫と田嶋陽子が結婚したような家庭だったので、家全体がなかなかのカオス感で充満している。

数年前の丑三つ時、突然田嶋陽子から電話が来た。
ちょうど今まさに鳩山由紀夫を包丁で刺そうとしているところらしく、
ついでに僕も一緒に殺してやるから今すぐ来いという連絡だった。
寝ぼけ眼でしばらく聞いていた僕は、
「とにかくその死に方は気に入らない」とだけ言った。

田嶋陽子は楽しそうに笑った。




# by iwayu0507 | 2009-10-02 20:54 | □岩崎裕司の日記 | Trackback
回(遊)


深き が深刻ならば
上澄みは いっつも空騒ぎ


# by iwayu0507 | 2009-10-01 00:25 | □岩崎裕司の日記 | Trackback
【小言日記】ゆっくりと息を吐く
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首相「できたらユッキーで…」 「バラク」にお願い?

 「ユキオ」「バラク」——訪米中の鳩山由紀夫首相とオバマ大統領が24日、ピッツバーグでのG20(金融サミット)夕食会で、初めてファーストネームで呼び合った。

 今月初めに大統領が総選挙の勝利を祝って鳩山氏に電話して以来、23日の初会談も含めて4度目の会話。大統領の方から「バラクと呼んでくれ」と呼びかけた。

 首相は「気さくな人。きっといい関係ができる」と周辺に語った。すでに「ファーストネーム友達」の幸(みゆき)、ミシェル両夫人に負けまいと、発音しづらい「ユキオ」でなく、ニックネームの「ユッキー」と呼んでもらえないか思案中という。(ピッツバーグ=村松真次)

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背筋がバキバキと音を立てて凍ってゆくんです。
もぅ…、あんな人、美輪明宏さんにぺしゃんこにされちゃえばいいのに。

とりあえず昔いった鳥羽水族館のあひるの行進でも見てほのぼのしようかと思います。




ほええ。




ほわあ。



のどかだねえ。


さようなら。
# by iwayu0507 | 2009-09-26 03:16 | □鑑賞日記 | Trackback
【鑑賞日記】
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戸籍制度見直しへ議連 民主有志
 戸籍制度の廃止をめざす議員連盟が、民主党の有志議員約30人により10月に発足することがわかった。名称は「戸籍法を考える議員連盟(仮称)」で、呼びかけ人は川上義博氏、松本龍氏ら。個人を単位とした登録制度をつくるため、戸籍法の廃止も含む見直しを提案している。
日本経済新聞9月20日

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また「個人」か。
意味が分かりません。いったい誰が望んでるんでしょうかね。
「人権暴力」の足音が聞こえるのは僕だけじゃないでしょ?

もうすっかり政治がつまらなくなってしまいました。自分とはなんの関係もない人達が権力争いをしていて、それを糾弾する声も利権にまみれて小さくなっている。この現象は今に始まったことじゃないけど、あっからさま!なんだよなあ、恥ずかしげもなく。日曜の「たかじんのそこまで言って委員会」もひどい有様でしたね、あの変節ぶりには吐き気を催しましたよ。
なんでこうもあっからさま!になるかって言うと、いさめる人間が押さえ込まれているか、そもそもいないかですよね、自民党にはまだいさめる人間が少数であれ権力を持っていたのでなんとか見られたけれど、今はもう、なんか、ひどいですね、自民も民主も。時々福島のみずぽたんが一番まともに見えちゃうくらい不気味です。

はあぁぁぁっ…

いったん深呼吸でもして、過去でも振り返ってみようかな。
過去を眺めるってのは、そこにある「戻るべき指針」を取り戻す目的においてなされることですからね。
人が旅に出られるのは、そもそも還れる場所があるからです。本人の自覚云々は別としてね。


僕は昔、麻生太郎氏を「大股で歩く政治家」と言って、頼りになるけど、時々は黙っていて貰いたいと感じていました。これは麻生氏の問題というより「ちょっと一人にしてよ」という僕個人の問題ですけどね。今もその印象は変わってませんが、残念な思いは何度かしました。外務大臣の時ならできたことでも首相になったらできなくなることがあるとは言え、保守最後の砦であったことは間違いなく、その分失望も大きかったようです。

まま、とりあえず、ちょっとだけ一緒に振り返ってみましょうよ。

『Project X 麻生太郎の挑戦 ~中東に平和と繁栄の回廊を描け』



『「危機をチャンスに変えろ」(前編)~G20サミットの 舞台裏』



『「危機をチャンスに変えろ」(後編)~予算編成の舞台裏』



『政権交代詐欺の共犯者を暴いてみた』



おしまい
# by iwayu0507 | 2009-09-22 13:31 | □鑑賞日記 | Trackback
【鑑賞日記】R・タゴール
最近、インドの詩人ラビンドラナート・タゴールを読んでます。
詩集『ギタンジャリ』は、青空文庫からダウンロード。
『人間の宗教』は古本屋で購入。まだ読み途中。

『ギタンジャリ』は、僕が感じてることに似すぎていて、読んでいて恥ずかしくなるけれど、ちょっとこのまましばらくタゴールに潜ってみようかな、とか思ってます。

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12
わたしの旅の時は永く
その道のりは遙かに遠い。

朝の光がさしたとき車で出かけて
世界の荒野を越えて
数々の星にわだちの跡を残してきた

自分自身に近づく道は
一番遠い旅路なのだ
単純な音色を出すためには
一番めんどうな訓練<しつけ>が要るのだ。

旅人は一つ一つ他人の戸口をたたき
一番終りに自分の戸口を見つける。
あらゆる外の世界をさまよい
最後に一番なかの神殿に到達する。

わたしの眼は遠く遙かにさまよった。
そして最後に眼を閉じて言った
「あなたはここに居られた!」と。

「おお どこに?」との問いと叫びは
涙に溶けて幾千の流れとなり
「わたしは居る」という確信の洪水となり
世界へ逆流し始める。

33
昼間 その人達は家に来て言った。

「一番小さな部屋を ちょっと借ります。」


その人達はいった


「あなたの礼拝をお手伝いしましょう。
そして神の恵みを
自分の分け前だけ頂戴します。」


そして静かに おとなしく片隅に坐った。


けれど夜になり 暗くなると

その人達は強く荒々しく聖所に入ってきて

神の祭壇の ささげものを

けがれた慾で盗んでゆくのだ。


『ギタンジャリ(ラビンドラナート・タゴール著)』より
※ギタンジャリ=ベンガル語で神への捧げ歌の意


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まったく関係ないけれど、最近なんだか、社民党の福島瑞穂さんが生き生きとしてますね。
私ね、前にも言ったんだけど、みずぽたん好きなんですよねえ。
だけど権力だけは持たせちゃいけないっすよ。
僕あね、ただ愛でていたいだけなんだよっ。

嗚呼、みずぽたん! もうあなたを見て笑えないよ。

おしまい
# by iwayu0507 | 2009-09-12 10:59 | □鑑賞日記
【鑑賞日記】選挙が終って
これ見ました。
今回の選挙で、私が個人的にどうしても当選して欲しかった人々による超豪華討論番組です。
私ね、西川京子議員、大好きなんですよ、馬渡議員もね。あ、元か…。

私の世代って——といっていいのか分りませんけど——、イザとなると「いわゆる中道」をとるのが好きな人って多いような気がします。それは単に自分の無知の隠蔽行為なのか、または独自の画期的な考えがある故なのか、それとも単なる無関心か、むしろ多くの知識によって自分の芯を失っている故なのか、よく分りません、それぞれあるんでしょうけど。

皆さんはどうお感じになりますか。ちょっと観てみてくださいな。

おしまい
# by iwayu0507 | 2009-09-05 21:15 | □鑑賞日記 | Trackback
【鑑賞日記】『党首討論』
こちらにノーカット版があります。
90分ありますが、有権者なら観てくださいね。

もともと「党首討論について、自民党は当初、テレビの地上波でノーカット放送することを条件としていたが、NHKと民放各局が応ぜず、最終的に同党が譲歩した」そうです。
気が狂ってますね。カットせず流せよNHKって話です。
ということで、テレビではMAD版しか流れませんので、ノーカット版を観て、しっかり自分の頭で判断しましょう。

□では、後は、昨日のニュースZEROの討論を観ていて不安になった個人的ぼやきを走り書きしたものをそのまま転載しておわります。

□ ■ □

選挙が近づいてきます。
今、民主党だ自民党だ言ってる人はいませんよね?大丈夫ですよね?人で選びましょうね。
日本の政治は壊れることが必要だと思っていますが、民主党が衆参を握ってしまったら、皆さんご存じの通り日本は滅びへの道をひた走ります。もうこんなこと誰でも知ってると思いますが、怖くなったので書いちゃいます。ちなみに僕は日本はちゃんと壊れちゃった方がいいと思ってますが、いざそうなると怖くなるってのが今の心境です。「この壊れ方でいいのか…?」という具合です。

民主党や公明党の闇法案、人権擁護法案や外国人参政権などなどご存じですよね?
こわいこわい。
さっきまで4チャンネルで党首討論やってましたけど、鳩山氏の発言も顔も怖いっす。
鳩山氏は「東アジア共同体」と「地域主権」をめざすと言ってた。
一方で中国にはすでに、チベット弾圧やシルクロードでの核実験、先のウイグル人の虐殺など、国際的に凶悪な人権問題について「内政干渉はしない」とゴマをすっているし、そのくせ「アジアのみなさん」への「配慮」のために靖国参拝は閣僚にもさせない、控えさせると発言していますし、また、韓国には小沢、岡田氏がすでに、外国人参政権付与の実現を約束している。
民主党の政策をどんどんくっつけていきましょうね。簡単なパズルだもんね。
「国立国会図書館法改正案(先の大戦において日本がどれだけ悪いことをしたかを究明するための調査局設置)」、それから「従軍慰安婦法案」もね。あと「夫婦別姓」もか。もう…、気持ち悪い政策いっぱいあるよ。
民主党の言ってる「地域主権」は「外国人に住みよい国は日本人にも住みやすい(原口議員)」「日本列島は日本人だけのものじゃない(鳩山党首)」「「日本人は日本国の国民とは日本人のことという意識が強い(現ネクスト文科大臣小宮山 洋子氏)→在日韓国人の参政権付与の推進に関しての発言」という「外国人参政権ありき」、さらに倍率ドンの「移民受け入れ」を念頭においた地域主権ですもんね。日本が分断されるってことですもんね。その一方で純粋な日本人は家族解体でどんどん減っていく。そういう意味の「地方分権」で、日本解体の一つですもんね。民主党の言う「東アジア共同体」ってのは、東アジアの融合ではなくて、中韓による日本併呑ですもんね。どっちかっていうと。そうそうそう、そういえば民主党の支持母体は民団(在日本大韓民国民団)だ。誰もが知ってることだけど。だいたい民主党の支持母体である日教組と一緒に、皆さん知っての通り「国旗・国家」なんて反対してるし。あれれ、じゃ民主党ってどの国の党?

鳩山幹事長(当時)
「選挙の支援に感謝する。日教組とともにこの国を担う覚悟だ」(平成21年1月14日 日教組新春の集い)
興石代表代行(現ネクスト副総理)
「教育の政治的中立と言われても、そんなものありえない」
「私も日教組とともに戦っていく。永遠に日教組の組合員であるという自負を持っている」(平成21年1月14日 日教組新春の集い)
「政治を抜きにした教育はない」(平成21年7月6日 日教組第97回定期大会)

教育は確実にめちゃくちゃになりますよ。今でさえ中学社会の教科書には、秀吉の朝鮮出兵を「侵略」と表記するくせに、元寇の日本に対する侵略行為は「遠征」と表記されてんですよ。「教育の政治的中立と言われても、そんなものありえない」なんて言ってる人間が副総理って…、だってこの思考回路って中国共産党まんまじゃないすか。てかこの発言自体が教育基本法をやぶってるわけなんだけど、決してマスコミはらんちき騒ぎしないのね、麻生首相の読み間違いの時みたいには。

明日の党首討論でさえ、NHKや民放はノーカット放送を拒否して、結果公然と「編集して偏向して放送します!」って宣言してんだかんね。国民バカにするのもいい加減にしなさいよ、ほんとやんなっちゃうよ。そりゃこの大事な時期に鳩山に好き勝手喋られたら民主党は不利だろうけどさ。

今日は、誰もが知ってることばっかり書いている。
だってなんだか背筋が寒くなってきたんだもの。

も一回いうけど、自民だ民主だじゃなくて、ちゃんと人で選ばないとだね。

おしまい
# by iwayu0507 | 2009-08-13 01:07 | □鑑賞日記
【鑑賞日記】『世界名作劇場 小公女セーラ』

【 一 】 いじめの作法

相手をよりイヤな気持ちにさせ、あわよくば精神的崩壊に導くためにはどうすればいいのでしょうか?
簡単に言って、相手を「正統的に傷つけさせない」ということです。
「正統的に傷つけさせない」というのはどういうことか。
または「正統的に傷つける」というのはどういうことか。

「正統的に傷つく」というのは原因と結果がある程度スムーズにつながっている状態で、「正統的に傷つけさせない」というのは、原因と結果の間に霞みがかかって、何によって傷ついているのか分からなくさせるという状態です。

いじめの効果はもちろん後者の方が格段に上位です。
これの特徴として有名なものに「匿名性」があります。まずいじめたい相手に正面切っていじめてはいけません。それをしてしまうと「正統的に傷つける」ことになり、あなたの尊厳を犠牲にしてしまいます。

正統的ないじめというのは本来、尊厳と尊厳の削りあいです。加害者は自分の尊厳を削って、自分を犠牲にしながら、相手の尊厳を削ります。相手の尊厳が削れた分だけ、自分の尊厳が増すような気がしますので、なかなかやめられません。けれど実は自分の尊厳を貶めながら相手の尊厳を削っていますので、プラマイゼロなばかりか、マイナスなんですが、それに本人は気づけません。相手を傷つければ傷つけるだけ知らずに自分が傷つきますので、もっと自分が安定したいために、さらに自分を貶めながら相手を傷つける行為を継続します。それはその行為の他に自己の尊厳が満たされるものが見つかるか、相手が目の前から消え去るかするまで続きます。
ただ、これではまだ相手を正統的に傷つける行為であり、普通のいじめになってしまい、あなたは社会的地位を失います。子どものうちは、クラス全員から非難されたり—その卑劣ないじめ行為が正統的なだけに—他のクラスメイトの正統的な義侠心を刺激して無視や陰口やハブをくらい、逆にあなたがいじめられてしまったりしますが、大人になると普通の場合軽蔑され、その世界では一番重要とされている「信頼」を失います。

ですから、
少し頭のいい人なら、というか自分が傷つくのがイヤな人なら、または正統的ないじめを通過して「これ以上自分の尊厳を使いたくない!」と思った人なら、そんな正統的ないじめなどはしません。自分の尊厳を貶めずに相手だけを傷つけようと考えます。
つまり、その場合のいじめの形態は、複数による個人攻撃になります。集団によって、「いじめをするために支払う尊厳」を少しでも少なくしようとするのです。一人で相手と正面切っていじめるよりはまだ、自分の支払う尊厳に無頓着でいられるからです。それでもその行為はまだ正統的ないじめの範疇にありますので、リスクはあります。

そこで、
もっと頭がよくて、もっと自分が傷つきたくない人なら、こうします。
自分自身を相手に明かさないのです。自分を「匿名を決め込んだ誰か」にしてしまうのです。または、「自分ではそんなつもりは全然ない」という服を着込んで、いじめてる相手に馴れ馴れしく優しく話しかけてみたりして、「大人の社交」を混ぜ込むのです。こうするとさらに「自分の支払うべき尊厳」に無頓着になれますし、より安全でいられます。
ただ、これは「正統的ないじめ」の範疇を超えたものです。この行為には、それこそ「相手をあわよくば精神的崩壊に導こう」「殺してしまおう」という意志があります。これは本人の「意思」ではなく、「行為の意志」です。本人の意思は「支払うべき尊厳に無頓着」なほど、意志薄弱となっていますので、本来、「自分がどれほどの尊厳を支払うべき行為」をしたのか分かっていません。むしろそれに無頓着になるために「匿名を決め込む」のです。すると相手は正統的に傷つけません。正統的ないじめではなくなってしまったからです。
いじめられた相手は、加害者の「行為の意志」によって尊厳を貶められ、加害者の「意思」は排除、または霞みの中とされるのです。

<相手をよりイヤな気持ちにさせ、あわよくば精神的崩壊に導くためにはどうすればいいのでしょうか?
簡単に言って、相手を「正統的に傷つけさせない」ということです。
(中略)「正統的に傷つけさせない」というのは、原因と結果の間に霞みがかかって、何によって傷ついているのか分からなくさせるという状態です。>

まさにこの状態のできあがりです。このいじめの最大の利点は、一つに「匿名性」でありますが、いじめられた人がそれを言葉で他人に訴えることが非常に難しいということも挙げられます。

「それはあんたの被害妄想だよ」
という台詞が効くのはこういう状況ですね。
もう少し狡猾な人間ならば、さらに標的の相手に対して優しくしてあげるという離れ業もやってのけます。「人って話せばみんないい人」などという文句を相手に刷り込もうとするのですが、同時に贖罪意識からの逃避行動でもあります。これによって自分はさらに霞の向こうに消えていけます。

いじめというのは本来尊厳と尊厳との戦争ですが、こういった行為は核爆弾のスイッチを戯れに押してしまうようなものです。つまり相手の尊厳の一方的な虐殺行為であり、それをいじめとは呼びません。

これは匿名性の高いネット社会云々のことを言ってるだけでなく、そういった「尊厳の一方的な虐殺行為」というのは大人社会ではちょくちょく行われているということを言っています。
大人になると、同じ大人同士に向かって何かを注意したり諭したりすることは少なくなります。それは礼儀であると同様に自分の隠れ蓑でもあります。
社会的に立派とされる地位や行為をしていても、自分の集団の中では、つまり世間から見えないところでは、「子ども時代なら軽蔑される行為」を平気で行って、それを咎められることはありません。
なぜそういう行為を平気でできるか?
「自分だけが救われればいい」、「自分だけが傷つかないでいられる方法」、または「減りゆく自己の尊厳に対する無頓着さ」、これをしっかりと学習しているからです。
これを学習している人は、自分の身近にいる人物を救うために少しでも自分が傷つくならば、その人を見殺しにして、しかも良心の呵責を自己封殺してしまう術を知っています。こうやって書くとなんだか底意地の悪そうな人物に見えますが、大抵そんなことはありません。というかそういう「ヘマ」はしません。そういう方は、自分が傷つかないためにたくさん頭も絞って生きてきたのですから。誰でもそういう人物に心当たりがあるかと思います。自分を含めて。

ところで、さきほど申した
<正統的ないじめというのは本来、尊厳と尊厳の削りあいです>
というのは本当は間違いです。自己の尊厳とは減ったり増えたり他人と相対化して捉えられるものではないからです。ですからいじめ事態、目的に対して間違った行為をしているのですが、それでもなくならないのがいじめです。
いじめの目的は「自己の尊厳の維持や拡張」にありますから、「いじめをなくせ!」というスローガンは「すべての人間を完成された賢人に!」という途方もないことであり、祈りではあっても政治的に達成されることではありません。むしろそのスローガンによって「不完全な人類に対する包容力」をスポイルさせているように思えます。

いじめは決してなくなりません。いじめは人間的行為の一つです。
けれどそれが<尊厳と尊厳の(不毛な)削りあい>でなければいけません。その不毛さや悲劇から、人は尊厳の絶対性を、毎時代毎時代、学び取ろうとしているのです。学んでは忘れ、学んでは忘れを繰り返すのが人の宿命のような気もします。

「相対性の海」—私が漠然とそう呼んでいる現実社会のことですが—が若年層まで浸透していけばいくほど、このいじめという「行為の意志」が人の「意思」へ向けて「気づけ!」と泣き叫んでいるような気がしてなりません。

話はそれますが、

幼児期には思いっきり「不条理の深海」で遊び、不条理を食べ、あまり大人が食べてる相対性を食べさせない方が健全に育ちます。この時期に不条理をたくさん食べていると、大人になって相対性の海に移り住んだときに不条理の耐性が役に立ちます。ここで言う不条理とはもちろん理不尽とは違います。理屈で割り切れないというような意味です。
私の考えでは、精神疾患を起こすのは、大人になってから不条理の深海に落ちてしまった時に、不条理を食す耐性が不十分だったために起こると考えています。ある意味ショック状態を起こすのだと考えています。
また逆に、子供の精神疾患は不条理の深海にいながら、むやみやたらと相対性を食べさせることで起こると考えます。ちなみに青年の思春期というのは、不条理の深海と相対性の海の狭間と言えます。
健全な成人の精神性というのは、相対性の海と不条理の深海を行き来できる耐性が育った状態だと考えています。人の成長に関して、不条理という食事は私の中ではとても重要な位置を占めています。

閑話休題。

さて、「いじめに対して支払う尊厳」に無頓着な昨今、それほどに「これ以上傷つきたくない極限状態の人」が増えているということなのか、そもそも「正統的に傷つくことの意義」自体が失われてしまったのか、「ちゃんと(自分が)傷つける時にはせめてちゃんと傷つきたい」という私の願いはそもそも贅沢なのか。

などと、

今回、懐かしのアニメ『小公女セーラ』を鑑賞していて、いろいろと思うところがあったのであった。





【 二 】 セーラのこと


セーラをいじめる人々ほとんどすべてが、正統的ないじめによって自己の尊厳を貶めている。それに対してちゃんと傷つけているセーラの確固とした尊厳が印象的に描かれる。いじめる周囲の人々が支払っている尊厳のわりに、セーラの尊厳はなかなか減らない。費用対効果としてこのアニメのいじめはあんまり合理的ではないのだけど、それでも飽きずにセーラをいじめてしまう人々の「ついつい自ら貶め続けてしまう自己の尊厳」と「語られることがない、これ以上傷つくわけにはいかない各々の事情」には気の毒にも思う。
セーラの尊厳は柔らかくて堅い。その健全さに人々は魅せられ、あるいは畏れ、ある人は「何をそんな眼で見てるんですか!」と怒鳴り、ある人は「天使みたいだ…」とため息をつく。

ときに
「自分がない」などという言葉は「自分があり過ぎる」ために発せられる。
「自分がある」などという言葉は「自分がなさ過ぎる」ために発せられる。
自他の区別によって相対的に測れる自分などというのは陽炎でしかない。
「自分」というのは認識不可であり、相対性の海の中では「借り物」でしか測れない。
その「借り物」によって気分を左右されるのも人間のもつ「不安」の本来性であるけれど、そういった<刺激や慰安の奴隷>になるために人は生まれてきたわけではない。
ではなんのために人は生まれてきたのか?
有史以来、人間はそのことを考え続けてきました。私はまだまだ若く、この答えを出してさっさと「一抜けた」する身分ではないのだけれど、まず、「なんのために生まれてきたのか?」という問いが間違っていると思います。今さっき申し上げたとおり、例えば<<刺激や慰安の奴隷>になるために人は生まれてきたわけではない>というように、実は否定によって語られることなのです。この否定、あるいは「死」によって、必要ならば、「おぼろげな生」を浮かび上がらせるしかないのだろうと私は思います。



話の前半、超お嬢様(女学院の特別寄宿生として二部屋も与えられ、専属のメイドと馬車まで持っていた)のセーラがメイドのベッキーにこんなことを言う。
「ねえベッキー、私、自分がお嬢様なんて思ったことはないわ。私とあなたは同じ女の子だと思ってるの。私があなたとして生まれ、あなたが私として生まれたって何の不思議もないわ」

ノーブレス・オブリージュ(高い身分に伴う義務:金持ちや身分の高いものは、そうでない人々を助けなければならないという考え方)という言葉がぴったりとはまるこの物語は、子ども達というよりもまず、日本にいる「高貴と呼ばれる地位の人々」に是非とも鑑賞し勉強して欲しいものだ。

そんなセーラはお父様がインドで亡くなって一文無しになり、ベッキーと同じ「学院の小間使い」として働くことになる。みすぼらしい格好をさせられ、ついには見知らぬ子供から六ペンスをめぐまれるまで身分を落とした自分に引き裂かれそうになる。元同級生や院長先生からの理不尽ないじめの数々。アニメ史にさんさんと輝く不幸な物語。
たびたび驚くのだけど、ある回でセーラが理不尽な罰を受けて屋根裏部屋から馬小屋へと追い出されたことがあった。その翌朝の教室での風景。※上の動画7:40あたり

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 (セーラが朝食の支度をしている。と、女生徒たちが入ってくる)

ロッティ(年少組) 「!、(セーラに抱きつく)セーラママ〜、大丈夫だったのお?」
セーラ 「ロッティ、おはよう」
アーメンガード 「セーラ…!あたし昨日あなたが連れられていくのを見て、この学院から追い出されるんじゃないかと思って…」
ロッティ 「そうよぉ…あたし心配で眠れなかったのよぉ!」
セーラ 「ありがとうロッティ、アーメンガード。でも心配しないで。ここを追い出されたりはしなかったのよ。ほら、こうして働いてるでしょ?」
ロッティ 「じゃあこんどは、屋根裏じゃなくてどこのお部屋になったの?」
セーラ 「ぉ…お部屋って…それは…」
ラビニアの声 「決まってるじゃないのお!」

 (いじめっこのラビニアが取り巻きのジェシーとガートルードを連れて登場)

ラビニア 「うふっ、あれほど院長先生を怒らせたんですもの。寝させてもらえるところなんてあるとすれば、馬小屋だけよ」
ロッティ 「ぇぇっ…!、うまごや…!?」
アーメンガード 「そ、そんな…」

 (子ども達「ええ…うまごや…」とざわざわ)

ラビニア 「どうお? 違って?」

 (間)

ラビニア 「どおしたのぉ? み〜んな聞きたがっているんだから、あなたの口から言ったらどうお?」

 (沈黙)

セーラ 「そうよ。あなたの言う通りよ。わたしは今馬小屋で寝起きしてるのよ」

 (ざわざわ)

ラビニア「聞いたでしょう、みんな?こちらのお嬢さんはねぇえ、昔お飼いになってた馬の、馬小屋で今は住んでらっしゃるんですって! あははは」

  (ラビニアの取り巻きのジェシーとガートルード笑う)

アーメンガード「せ、セーラ…」
ロッテ「セーラママ…」

 (院長先生登場。生徒席に散る)

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セーラの強さというのは、揺るぎない父への尊敬と、その父によって愛され育てられた「セーラ自身の尊厳」である。どんなにセーラの身分を落としても、どんなに意地悪や理不尽ないじめをしても、セーラの尊厳が貶められることはない。ここで描かれているのは「セーラ先生による、正統的で正しい傷つき方、その作法」のような気がする。
自分の尊厳を傷つけ、貶めることができるのは自分でしかない。セーラは決して、どんな場面でも、自分を貶めることはしない。
セーラがこんなことを言う。
「あたし、この学院を出て行くわけにはいかないの。負けそうな自分の弱さと戦ってるのよ」
彼女がいう弱さとは、ついつい自分の尊厳を傷つけそうになることだろう。

<セーラ 「そうよ。あなたの言う通りよ。わたしは今、馬小屋で寝起きしてるのよ」>
自分がどんな境遇であれ(金持ちでも貧乏でも)、それが決して自分の価値を左右することにはならない。
長い沈黙の後で達観したかのように、ある意味爽やかさも香るこの台詞は、セーラの気高さが集約されている。もちろん達観も爽やかさも彼女の心にはない。心は暴風雨である。その中で見つけた一条の光が、彼女をしてこんな言葉を形作った。


セーラが守っている尊厳と、ラビニアのように簡単に消費されてしまう尊厳と、いったい何が違うのだろうか。とうぜん、セーラの守る尊厳には、敬愛するお父様やお母様が含まれているから違うのである。

つまり彼女が強いのは、自分を守っていないからなのだ。

彼女が守ってるのはお父様からの愛であり、その愛を裏切りたくないから、彼女は「お父様が愛してくださった自分自身」を貶めることはしない。

なんとも日本的な味付けがされている作品だなあと思うのですが、ちょっと周りを見渡してみるとどうでしょう? ね。なんだか勉強になりませんか。

セーラは自分を守ろうとしないから、強い尊厳を保ち、
ラビニアは自分を守ろうとするから、いたずらに自分を貶める。
セーラは自分を守ろうとしないから、周囲の優しい人々は彼女を守ろうと手をさしのべる。
ラビニアは自分を守ろうとしているから、周囲の優しい人々を遠ざける。
セーラは自分を守ろうとしないから、お友達に弱みを見せることができる。
ラビニアは自分を守ろうとしているから、誰に対しても弱みを見せられない。
セーラは自分を守ろうとしないから、他人を救おうとすることに躊躇がない。
ラビニアは自分を守ろうとしているから、他人を救うことに躊躇する。

見える現象としてはセーラは十二分に不幸であったのだけど(特にメイド時代は)、ラビニアや他の人々の語られない闇の方がよっぽど気の毒になってくる、そんな一面もある。ちなみにまだ全部を観られていないので、これから語られるのかも知れない。



「私の愛するあなたが、あなた自身を傷つけることがありませんように」
言わずともそう願えるのが大人たる者の務めかも知れない。
今、そう願う資格のある親がどれだけいるのだろうか。自戒をこめざるを得ない。


おしまい

追記

見終わりました。いやあ、よかったなあ。子供の時に観て、主題歌を歌う下成佐登子さんの美声と、なかにし礼氏の「つらくても挫けないわ」的な歌詞と、森田公一氏のなんとも暗い曲調が印象的で、ただでさえ暗く重い作品を、より暗〜く重〜く心に染み渡らせたことを思い出します。世界名作劇場は日曜の夜でしたよね?土曜だったかな。夕飯を食べたあとに観ていた記憶があります。

こちらのサイトによると、『小公女セーラ』には原作の他に映画版(米国製)もあるそうで、日本製アニメでは日本独特のシナリオアレンジもされているそうです。特にラストなんてのはまさにお国柄がでていますね。

ご存じの通り、父の親友である大富豪の方に探し当てられたセーラは、ダイヤモンドプリンセスとなって救われるのですが、原作ではセーラはそのまま学院を去ってしまったようですし、映画では復讐?のようなものをしているそうですが、アニメ版では学院に残って多額の寄付までしています。
こういった「みんなが救われればいいじゃないか」といった発想は、私の気質にぴったりとはまります。

「みんなが少しずつ傷つけばいいじゃないか」「丸く収まればいいじゃないか」

ここで白状しますが、実はわたし、そういう日本人でもあるんです。
「丸く収める」ってのは、物事をなあなあにしてなかったことにするような、ある種「いい加減さ」「のんきさ」というイメージもありますが、実のところ「角張ったところを削って丸くするという、痛みをみんなで分け合う」精神なんだと思います。

と書くと「なんだそのきれい事は…」、などと馬鹿にする自分もいて、「ではそんな日本に死刑制度があるってのはどういうこと?」とか詰問をしてくるわけです。理屈でいくらか武装はできますが、正直な話、私はその話題について主張すべき答えをもっていないのです。難しすぎて。

アニメ版セーラは丸く収まってよかったです。昔に戻ったみたいな気がするけれど、少しずつみんなが変わった。ハッピーエンドでした。ラビニアは完全にセーラを愛してると思って観てましたが、そのようになってよかったです。あのラビニアの変わり身を眉唾もので見てもいいのですが—実際、ラビニア本人がそう思ってたでしょうが—、その変わり身の処世術が、今回功を奏すのだなあと思って目を細めました。自分でも気づかずに、自分では嘘をついてるつもりだったのに、実は本音へと向かっていく、そんな気がしたラビニアの変わり身でした。

なんだか保護者の感想文みたいになってしまいましたが。

最近、子供のとき印象に残った作品をもう一度観るというキャンペーン中で、この作品はその二作品目になります。一作品目は『クリーミィマミ』を観直しました。とっても好きな作品でしたが、当時男の子だった私にも変身願望ってあったのかしら?などと感慨に浸ったりしました。

それではごきげんよう。よい週末を。

おしまい

追記の追記

ちょっとびっくりしたんですが、『小公女セーラ』って今年の10月からTBSでドラマになるんですってね!やめときゃいいのに。
# by iwayu0507 | 2009-08-08 07:08 | □鑑賞日記
【鑑賞日記】
先日たまたまテレビでヨーロッパ企画を観劇した。初めて見たが、内容よりもまず、NHK大阪の力の入れっぷりがすごかった。あれ、何台カメラ入ってるんだろうか。いろんな角度から舞台をとらえていて目に嬉しかった。
その次の日に、つまり昨日ですが、青山麻紀子が出演してるパセリスという劇団を池袋に見に行った。
偶然なんだろうが、二つとも同じものを感じた。別に悪いことじゃないだろうけど、なんだか「非常に丁寧なあるあるネタ」だったように思う。
僕にはうまく対処できないんだ、こういうの。丁寧過ぎて。
なんというか、なんつうか、いいんだけど、「発見する喜び」を見つけられないと困ってしまう。
もちろん、
細かいネタ的な発見はあるんだろうけど、例えばほら、えっと、ついつい独り言で突っ込みたくなるような感じの発見。「なんやねん」的な、「結局みんな行ってたんかい!」的な、見てない人は分からないけど。そういう突っ込みを誘うものはたくさんあったと思う。それがおもしろいのかな。それを含めて。
ただ、でも、プロットと文字ばかりが動いていて、人間がほとんど動いていないように感じられた。僕には苦手な作品なんだ、テレビで見る分にはいいけど。

たまたま二日連続で見た作品がそうだったのか、今の世間のニーズがそうなのか、僕にはよく分からないが、どうしてもそう、「だったらテレビでやればいいじゃん」と思ってしまう。「生の肉体必要?」と思ってしまう。

どんな作品であれ大変な苦労で仕上げているのだけど、果たしてそれがその人にとって描かねばならない作品だったのどうか…これが…う〜ん…そんなこと言ってたら商業的に成り立っていかないんだろうけどさ、なんかね。

もっとおまえの血を見せろやああああああああ!!!

なんつって、客席で包丁を握りしめる私もいたりするんです。正直なところ。
いろんな作品、いろんな思想、それはなければならないものでしょうけど、そうそう、そういう意味じゃ例えば北朝鮮だってそうなんですよきっと。中国もね。現実問題では話は違うけど。

別に共産主義と上記の作品に何の関係もないけどさ。

なんでしょうかね。

目の前で平然とスマートに立っていられると腹が立つんですよね。
「いいのか? 今、そんな顔で立っていて」
とか、へんてこな義侠心に駆られてしまうんですよ。未だに僕は「自分は不幸だ」とでも思ってるんでしょうかね。それだったら気持ち悪いな、と思いますが、基本、不幸も幸福も同じように感じている今日この頃、ここ1,2年、明日明後日100年後なんですが、そのもう一枚後ろに何かが控えているならば、警戒したい今この時です。

関係ないですが、
きのう、夜中に考え込んで、とつぜん剃髪をしてしまいました。
なんだかとっても自由ですね。
昔、探偵をやってたときに、「君の人生は面白いねえ!」と近しい人から大爆笑されたことがあるんですが、「そうかもな」と最近すこしだけ思います。


おしまい
# by iwayu0507 | 2009-07-26 16:26 | □鑑賞日記
【鑑賞日記】鈴木大拙『禅と日本文化』
「そうそう、そうそう」と興奮しながら頷いたり、「うぅ、」と脊髄反射的に反発したりしながら一気に読み切ってしまった。ほぼ「そうなんだよ、それそれ」と勇気づけられて読んだのだけど、今回はその一部を紹介したい。

まず、知識には三種類あるとして、禅の目指す知識を指し示している。

第一に、読んだり聞いたりするもので、<他人が備えてくれた地図>である。
第二に、観察と実験・分析と推理の結果である、科学的と呼ばれるものである。
第三に、直覚的な理解の方法によって達せられるものである。
<禅が呼びさまさんとするところは、この第三の形態の知識であって、それは深く存在の基礎にまで浸透している、というよりはむしろ、われわれの存在の深いところから出てくるものなのである。(第一章 禅の予備知識)>

そして、第三の知識、直覚とはどういうものかを美術や武道などを例にとって丁寧に解説されている。

<「中国の神秘思想と近代絵画」の著者ジョージ・ダスイットは禅的神秘思想の精神をよく理解しているようだが、彼に従えばこうである。『中国の美術家が絵を描くとき大事なことは(中略)曰く、十年間、竹を描け、そして自身がが一本の竹になって竹を描け、このようにして描くとき、竹に関する一切を忘却せよと。間違いなき技術はすでに手に入っているので、今はただ天来の興に身を任せるのだ。』自分が竹になること、竹を描くとき竹と同一化したことさえ忘れること、これは竹の禅ではなかろうか。(「第二章 禅と美術」より)>


<弓も折れ
矢も尽きはつる
ところにて
さしもゆるさで
強く射てみよ

矢柄なき矢を弦なき弓より射れば、そはかならず、かつて極東の人々の歴史に起こったように岩をも貫き通すであろう。
禅宗と同様に、芸術の全ての部門において、この危機の通過ということは、あらゆる創造的作品の根源に到達するために極めて肝要だと考えられている。(「第四章 禅と剣道」より)>

<禅の狙うところも、人類が己をもったいづけるために工夫したと思われるような、一切の人為的な覆いものをはぎ取る点にある。禅がまず知性と闘うのは、知性というものが実用には役立つであろうが、われわれが自分の存在を深く掘り下げようとするのを妨げるからである。(「第六章 禅と茶道」より>

かつてことあるごとに「単純<複雑<高次の単純」と言い続けた僕にとって、無意識を意識することや、『身も蓋もない演技入門』で一部言及した忘却に関することには非常に親近感があり、また心理療法のプロセスワークの底流でもあることも再認識させられ、さまざまに合点するとともに勇気を得た。
無意識に関してはこのようなことが書いてある。

<「無意識」は蓄積された知識の宝庫ではなくて、枯れることを知らぬ生の源泉であるからだ。ここには知識が貯蔵されてあるのではなくて、あたかも巨木が極小一粒の種子から生長するように、ここから生長するのである。(第七章 禅と俳句)>

これは弟子入りカウンセリングや来談者中心療法など、多くの心理療法の底流にある考えであり、「その悩みの解決方法は貴方自身が初めから知っている」という前提で接する心理療法家の心得にも通ずる。

それから文明人に対して今も昔も通用する苦言。

<われわれいわゆる現代人は閑暇(ひま)を失っている。悶える心には真に生を楽しむ余裕はなく、ただ刺激のために刺激を追って、内心の苦悶を一時的に窒息させておこうとするに過ぎない。主要な問題は生活にゆったりとした教養的享受のためにあるのか、快楽と感覚的刺激を求めるためにあるのか、どちらかだろうかという点である。この問題が決まった上で、必要ならば、われわれは現代生活の全機構を否定して新しく初めても良い。われわれの目的は終始、物質的な欲望と慰安の奴隷になっていることではない。(「第六章 禅と茶道」より)>

で、僕がもっとも興奮したのは—実は以前友人に「僕の目標は気が狂って死ぬことだ。その途中で失敗して死んでも仕方がない」と言って引かれたことがあるのだけど—次の言葉です。

<悟りは「狂う」こと、すなわち通常の意識のレヴェルたる知的レヴェルを越えることだ、悟りは何か異常なものだ、>

でも実は大事なのはその後に続く言葉だったりする。

<と前に言ったが、悟りには別の一面があって、それは通常に異常を見、平凡な事物に神秘的なものを感知し、創造全体の意味を一気に領得する一点を把握し、一本の草の葉を採ってこれを丈六の金身仏に変ずるのである。これによれば、禅は極めて通常、極めて陳腐、まるで羊の如く従順で、泥水に浸かり、世俗の流れに沿うて泳ぎ、世間の他の人と少しも変わりないことになる>

つまり、「狂うこと」=「危機の通過」であって、その先に高次の単純を実現した「世間の他の人と少しも変わりない」存在になる。また、別の言い方をすれば「通常の意識のレヴェルたる知的レヴェルを越えた」ことすら忘却している状態であり、それこそ「単純<複雑<高次の単純」で、「単純」と「高次の単純」は論理的に見分けがつかないものになる。

かつて僕は「このままだと地球になっちゃう!」と言って悩んでいたことがある(お笑いになっていんですよ)。「だから人間らしくあるために、瀕死になった嫉妬心やら憎悪やらの悪い感情を蘇生させることにした」というようなことをとっても陽気に書いていた。今なら当時の僕に向かってこう言えるかも知れない。
「ねえねえねえ、だったらさ、一度地球になってごらんよ!」
たぶん当時の僕は顔を曇らすだろうな、水を差されて。当時の僕にとっての地球とは、「“自分以外”の人間や物事が“ある”ことをことごとく認める」という意味だったと思う。別の言い方をすれば、自己の中にある「本当の自己」を探して掘り下げたときに、集合的無意識のような全体性を見つけた気がして安堵するが、同時にそのことによって自己がなくなってしまった、という論理矛盾に陥った末の感情復古だろうと推察する。
つまるところ、知性が働いて発狂を巧みにかわし続けていたと解釈できる。だから今の私が「地球になっちゃえよ!」と馴れ馴れしい友人の体で誘うのは、「発狂しちゃえよお!」と同義であり実は悪魔のささやきでもある。
「そんなこと言ったら当時の僕は間違って間違ったことになっちゃうよ」と言うのは“今のちょっと先の今の私”であるが、そんな現在の私の心配をよそに、当時の僕は着々と世間離れしていった。それはまた今だってそんなに変わったことではないように思うが、必ずしも誇らしいことではない。

ちなみに今はこんな風に考えている。
「自己の深淵には、自分でしか入れない本質があって、同時にそこは、隣り合った無数の別の本質(少なくとも人間)と繋がり、なんらかの交流やら循環が行われている。」
ここには論理矛盾がありそうだが、それでいいんだと思う。例えば遺伝子やDNAの話をすれば、ある種の解決に向かうような気もするけれど、今のところ私にとっては不粋である。

まあ、今月の身の上話はこのくらいにして、

『禅と日本文化』を読んでいると、「より普通に。より当たり前」になることが禅の目指すことのように思える。例えば倉田百三が戯曲『出家とその弟子』で描いた親鸞などは、普通、人が思い浮かべる「悟り」の姿とは遠く、当たり前の(かどうかは分からないが)悩み多き人物像である。


親鸞 「私は自分を悪人と信じています。そうです。私は救いがたき悪人です。私の心は仏子を呪いますもの。私の肉は同じ仏子を喰いますもの。悪人でなくて何でしょうか。」
慈円 「お師匠様はいつもこのように仰せられます。」
(中略)
親鸞 「私は極重悪人です。運命に逢えば逢うだけ私の悪の根深さが分かります。善の相(すがた)の心の眼に展けていくだけ、前には気のつかなかった悪が見えるようになります。」
左衛門 「あなたは地獄はあると仰いましたね。」
親鸞 「あると信じます。」
左衛門 「ではあなたは地獄に堕ちなくてはならないのではありませんか。」
親鸞 「このままでは地獄に堕ちます。それを無理とは思いません。」
左衛門 「あなたは恐くはないのですか。」
親鸞 「恐くないどころではありません。私はその恐怖に昼も夜もふるえていました。(中略)私の心の内に蔓る(はびこる)悪は、私に地獄のあることをますます明らかに証しました。そして私はその悪から逃れる希望を失いました。私は所詮地獄行きと決定しました。」>

なこたあないっ、あんた立派だよお!

と、ついつい森田健作になって強引に肩を抱きたくもなるが、それこそ凡人の極みである。
立派な人間ほど、マゾなまでに謙虚になる。それは「寄りかかる答え」がこの世にないことを知っているからだと思う。それがあるとするならば内にしかないのだろうが、それを探求したら最後、諦観を手に入れるまで懊悩を繰り返すことになる。もちろん諦観を手放す偉人もいて、その場合は気が狂ってしまったりする。
ん? で、それって幸せなの?
といま単純な疑問が頭をもたげたが、例えばこの親鸞像に従えば、そういった「幸せの基準」やら「幸せの到達点」やらの実利的、実効的な「幸せ」を手に入れる資格など自分にはない、というこれまたマゾ的な追い込み方をただ続けるのだろうと思う。

っったあ…!おんまえさんはくぁらい(暗い)なあ!

と、なぜだが不思議と森田健作になってしまうのだけど、別に千葉県知事になんらの疑義もない。

で、その親鸞を開祖とする浄土真宗は、底抜けに明るい宗教だと小耳に挟んだことがあるが、さもあらんと思うのだ。
有名な「他力本願」は、今や転じて「他人の力をあてにする」という意味となって、若干マイナスのイメージがするけれど、「自分以上の存在を想定する」という意味では禅にも通じるものがある。というか鈴木大拙によれば、ほとんどのものが禅に通じているらしいが。

私の勝手なイメージだけど、暗く深く自分を掘り起こし続けると、ついには地面の底に辿り着き——おそらくその最後の地盤の破壊が一番苦労し、より発狂を伴うのだろうが——、最後の地盤が突き抜けた時に、足下に広がる空を見つけるのだと思う。そうなれば、本人はすでに発狂しているのだから、足もとに広がる空に飛び込むことは難しいことではなく、むしろ、その素晴らしい世界に今一度生まれ直したような満面の笑顔で、ポッカリ空いた穴に勢いよく飛びこむだろう。まるでスカイダイビングをしているように落ちていくその姿は、落下ではなく飛んでいるように見え、どこにでも、なんでもできるように感じ、右手に輝いている太陽に祝福され、雲海を友に、頬を力強く撫でる空気に母に抱かれている安堵を、大気の冷たさに父の厳しさと愛を感じ、そしてきっとこう叫ぶ。

(例えば)親鸞   「ああ!生きてるって素晴らしい!」

自分ではなく、自分以上のものに抱かれているという感覚は、それこそ仏の救済なのかも知れない。他力本願とは本来そういう実感のように思う。

「自分以上の存在を想定する」という実感は、どっぷりと文明社会に浸っていると馴染みが薄くなる。それこそ<人類が己をもったいづけるために工夫したと思われるような、一切の人為的な覆いもの>によって霞がかかる。名著とは常に現代の書であるなあと思う。

ときに、最近山登りが女性の間で流行っていると聞く。本当の流行か作られた流行かは知らないけれど、確かに一,二年前から私の近しい人から登山話をしばしば聞く。だからといってそれが何を意味しているかよく分からないが、活動的女子の光によって四畳半的男子に一層暗い影がさすと言った表層的なことではないだろうと思うが、なんだかよく分からない。とにかく興味深い。
私は漠然と女に畏敬の念を感じているところがあるので、<禅がまず知性と闘う>ことと女性の登山ブームを関連づけたくなってしまうが、そういうことでもない気もするし、少しは関係があるようにも思う。よく分からないが、いま頭に浮かんだので指が滑って書いてしまったまでである。

なにはともあれ鈴木大拙『禅と日本文化』、お勧めの書である。

おしまい
# by iwayu0507 | 2009-06-19 05:29 | □鑑賞日記
【鑑賞日記】さまざま
■いくつか映画も観、演劇も少し観たが、書き記すには機を逸した感もあり、詳述はよそうと思うが、先日観劇したタテヨコ企画一〇周年公演『夜まで待てない』では、とても不思議な感覚を味わった。
例によって観劇レビューではないのだけど、なんというか「切磋琢磨の効用」を与ったという感覚があったのと、「もしかしておれ演劇が好きかも知れない」という実感を味わった、そういう雑感があり、「もう少し演劇を観るよう努力しよう」などとぼんやり思っている。
それからご招待を頂いたにも関わらず、行けずじまいになってしまった公演がちらほらあり、申し訳なく思う。この場で謝っても不躾だけれど

■実のところ僕にとって、「僕と演劇」という間柄はよく分からない。例えて言うならなんというか肉親に近い感覚があって、初めて作・演出をしたのは小学校三年生の学級内演劇大会の時であったし(確かその時期に3つ4つくらい作品を発表している)、その以前から、当時流行していたトム・キャットの「ふられ気分でロックンロール」を段ボールで作ったピアノとこれまた自作のサングラスをつけて披露、公演していたような子どもだった。とにかく何かに成りきることが好きだった。目の前を歩いている人の歩き方を真似したり、仕草や言い方を真似したり、知らないうちに一人何役の討論会を開いていたり、例えば今でも、カラオケは大嫌いだが、歌手に成りきって口パクで歌うのは大好きだし。

けれど別にそれらをどこかで披露しようなどとは全く思わないし、何かの訓練をしているわけでもない。
もしこれらを「芝居」というならば、僕は物心ついたころから今現在に至るまで、日常的に「芝居」をしている。けれどその行為はプライベートなもので他人に見せるものではない。映像作品が苦手という感覚は多分そこに起因している。とにかくカメラがコワイのだ。プライベートの記録が残るから。その点演劇は幾分気が楽だったりする。

(※ちなみに、例えばこういった子ども時代にはよくある多重人格的、自己解離的な現象が、大人になって疾患となっていくことを、心理学的に分析することも可能であるけれど、今となってはあまり意味はない。
例えば僕が(どちらかと言えば)孤独に強いのは、僕の中に何人かの話し相手がいるお陰だったりもするが、それを統合しようと頑張っても上手くはいかない。いったん「総合」として認めた上で、統合されるんなら統合されていくものであると、そこら辺は諦観するようにしている)

先日、友人の女優と話していて、彼女が昔の同僚の俳優から「まだ演劇やってたんだあ」と声をかけられて困った、というような話をしていて、僕は大いに憤慨したのだけど、正直僕には「演劇をやる・やめる」という言葉の意味がまったく分からない。僕が憤慨するところの意味は、その言葉が「まだ生きてんだあ」と同義語であるからなんだけど、そう言い放つ当人の気持ちを思えば、それは単なる親愛の情である場合が多いことも知っている。だいたい過去に僕だって同じような情を込めて—本人に直接ではなかったにしても—言い放った覚えもあるから、本来あんまりどうのこうの言えない。

で、何が言いたいかというと、「あんまり近すぎて意識してなかったけど、君のこと愛してる」と、たまに思うことがあって、その度にハッとするという、ただそれだけのことなんだけど。
まぁいいや、この話は。

■突然だが—ここより文体と内容が著しく変化して申し訳ないが—突然だが

NHKには感謝しなければならない。
今話題沸騰のNHKスペシャル「JAPANデビュー」問題に関してだ。
4月(かな?)に放映された第一回「アジアの一等国」では日本の台湾統治の特集が組まれたが、その内容が著しく偏向しているとして、先日、1300人もの日台両市民による抗議デモが渋谷にて行われた。しかも名古屋や青森、福岡、はては台湾台北市でも同時期に一斉に開催された。

すごいことだ。

実際僕もたまたま問題の番組を見たけれど、「やるなあ!」と嘆息混じりに不思議な笑みを浮かべてしまった。その意味するところは、NHKの大胆不敵な偏向っぷりと、まるで図鑑で観た恐竜が目の前に現れたごとくの驚嘆、または芸能人に初めて出会った時のトキメキに似た興奮であった。

わあ!こんな教科書通りの偏向番組初めて観た!!これか!これがNHKか!

噂や推測でしか確認してなかったNHKっぷりを、初めて生で確認して興奮したのと同時に、「今の時代、恥も外聞も捨てさった、こんな正面突破的な偏向番組で騙される人間がいるのだろうか?」と斜に構え、続いて「いや、てか、いると踏んでるから追い込みかけてんだな」とぷくぷくと怒りが沸騰してきた。

誰であったか失念したが、今回の「JAPANデビュー」問題に関して

<ついにNHKは日本人に武器を向けた>

と分析する識者がいたが、その通りだと思う。

しかし僕はNHKに感謝せざるを得ない。
この番組を契機に、台湾、特に李登輝氏(元台湾総統)と出会えたことに関してだ。「今更なんだ?」ということだけど、僕にとっては大きい。あれから僕は李登輝氏の書物を読みあさり、さらにそこから新渡戸稲造や倉田百三、鈴木大拙、西田幾多郎、カーライルへと手を広げることが出来た。

すでに多くの支持と評価を受けている李登輝氏の著書『「武士道」解題』には日本人なら誰でも頭を垂れざるおえない至言が満載だった。
中でも僕の胸を掴んだものは、山中鹿之助(戦国時代の末期の武将で、尼子氏の忠臣。毛利に敗れた尼子家の再興をはかり、信長や秀吉の助けを受けて奔走したが、毛利に捕らえられて殺された)が苦境の際に吟じた次の句だった。

憂き事のなほこの上に積れかし
 限りある身の力ためさん

般若心経に出会った時の感覚にも似ていて、お経のように読み上げているとなんとも力が湧く。
その他、さまざまな至言や智慧、なによりも愛に溢れていた。
民主党の新党首鳩山某が言う「愛」とは天地の違いだ。

ここから話は悪口に逸れてもうお家には帰りませんが、

だいたい鳩山氏の発言には主語がない。「誰が誰を愛するのか」まったく分からない。自分を愛せない者は他人も愛せないと言われているが、なんと鳩山氏は日本人ではなく宇宙人だそうであるから、彼の愛の対象は「宇宙から地球へ」なのかも知れない。もしそうならば日本の政権ではなく、どうぞ宇宙で政権をとって欲しいと僕なんかは思う。

時に、政治を知らない者ほど政治を語りたがると言うので、あまりこういう場で僕の無知をひけらかしても仕方がないのだけど、「三宅先生の仰る通りで」が口癖でおなじみの民主党議員原口一博氏が、「なぜ鳩山氏なのか?」に回答した次の言葉を聞けば、誰だってバカにされた気分になって一言いいたくもなるだろう。
彼は黒目をいつもより大きくしてこう答えた。

「(鳩山さんは)あったか〜いんです!」
さらに、
「殺伐としたこの時代に、国民は総理を見て安心感を得たいんです。鳩山さんはあったか〜く愛で包み込んでくれる方です」

なるほど。

鳩山氏は宇宙的視野で物事を見ておられますから、「日本列島は日本人だけのものじゃない」発言なんて普通に出てきますし、その鳩山氏にあったか〜く包んでもらっている原口氏だって「外国人に住みやすい国は、日本人にとっても住みやすいんです」と平気で本末転倒な発言ができるのですね。おかげで彼らの精神構造の一端を垣間見た気分になりました。

はい。ええ。

ゾッとします。


先のNHKスペシャルといい、今般の民主党やマスコミのさまざまといい、やり口が雑であからさまになっていることに誰だって気づきそうなもので、実際気づかれていることも知っていて、その上で、今や「身も蓋もない本性を晒したある勢い」が日本を我が物顔で闊歩している。こういった「本性むき出しのある勢い」に対して、売国奴だ、偏向だ、と騒ぎ立てる国民が出てくるのは当然の成り行きにも関わらずである。それでも彼らは(その「ある勢い」は)、「日本国民はすっかりバカである」という基本前提を崩さない。

そこに日本人を舐めた姿勢があって、同時に怖さも感じる。まるで「すでに勝負あった」と追い込みをかけているような気がしないでもないからだ。

まあ、本来誰がどう思ってても構わないことだが、それを知ってるか知らないかでは、生き馬の目を抜く現実社会での自己防衛に関して、とても大きな差が出てくる。

ただ、万一追い詰められ、死に瀕したとしても、未だ<憂き事のなほこの上に積れかし>ならば、<限りある身の力ためさん>大和魂を、必ず見せることになるでしょう。僕は。日本人は。みんなは。我々は。

僕のように、満足に自国の歴史を知らない無知な人間でも、徐々に戦後体制の呪縛から解かれようとしているんだから、きっと大丈夫だと信じている。


おしまい(さまざまであった)
# by iwayu0507 | 2009-05-21 00:11 | □鑑賞日記 | Trackback
【鑑賞日記】讀賣テレビ:たかじんのそこまで言って委員会(3/15)
□評論家の西部邁氏があるテレビでこのような意味のことを言っていた。(※僕のバイアスがかかっているため正確ではない)

<競争とは「競(似通った能力)」を持つものが「争(ひっぱりあう)」こと、
市場の「市」も天秤を表していてバランスのとれた場を意味する。つまり市場競争というのは、そもそもが優劣に差があっては成り立たないはずなのに、現代では大変な格差がある中で「自由だ、競争だ」と言って「自然と市場原理なるものが働く」と想定し、今や小泉政権の経験により、それはまさに失敗であったと総括されている>

互いに明らかな優劣の差がある者同士が闘えば、おのずと「勝ち組、負け組」は出てくる。それは「市場競争」が自己破滅した傍証と言えるかも知れない。競争が成り立つのは互いが拮抗している場合である。

さらに氏は
<そもそもセーフティネットという言葉は、一本の綱を渡る曲芸師の安全装置を意味し、しかもその綱を渡るためには、過酷な修行を必要とする。しかもそのセーフティネットに落ちても無事ですむ保証はなく、捻挫をすることもある。だいたい、競争するための場がどうして「綱」であるのか、どうしてもっと「広い道」で、互いに切磋琢磨して5m、10mの差で一位、二位三位などと決めるようにならないのか>

と言うようなことも言っていた。

セーフティネットという言葉が当たり前に飛び交う昨今、「そもそも論」としての西部氏の言葉は奇妙に清々しく響いた。

□「讀賣テレビ:たかじんのそこまで言って委員会(3月15日)YouTubeにて」

で、今日は「たかじんのそこまで言って委員会」を観た。
今日の委員会ではあの派遣村村長、湯浅誠氏を迎えて「例の」貧困問題を議論していた。

なんだかどれもかしこも上滑りな議論に聞こえてしまう。

湯浅氏は、「格差社会、セーフティネット、社会保障機能としての公共事業拡大」と、データを出して論理的に主張するが、そもそも彼に「人間らしく生きることについての理念」というのはないのだろうか?
結局、なんだ、金か?と思ってしまう。結局お前さんも敵さんと同じ論理じゃないか、だいたい「より善く生きる」ってあなたにとってなにさ、などと終始訝しく画面を眺めてしまう。
このように僕ははっきりと湯浅氏に懐疑的であるのだが、「麻生政権になってから老害が殊に目立ってきた三宅久之氏」や、「在日台湾人として生きてきた信念に、過剰に拠って立つ場合」の金美齢氏にも懐疑的だ。

□三宅氏は、毎日新聞に投稿されたある詩を、湯浅氏および氏周辺の人々に向けて恩着せがましく朗読する。

ーーーーーーーーーーーーーー
「自分の感受性くらい」

ぱさぱさに渇いていく心を
時代のせいにはするな
自ら水やりを怠っておいて
ダメなことの一切を
時代のせいにはするな
僅かに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
若者よ

ーーーーーーーーーーー

「嗚呼、最っ低な詩ぃ!」と、僕なんかは声を上げてしまった。
ひどく傲慢な詩人だ。本当に詩人か?団塊の世代の戯言ではないのか?
この詩人は、傲慢にも「己の感受性と尊厳は、自らが水をやって育て守ってきた」とぬかす。傲慢な奴だ。「若者よ」などと言うからには作者は若者ではないのだから、もう少し我が身を省みて「その感受性と尊厳は誰に守られてきたのか?誰に育ててもらい、それを託されたのか」を自覚し、己の周囲の人間や自然に感謝すべきであり、若者に対してこんな愚にもつかない見栄を張らず、いつか自分が誰かにされたように、「若者の尊厳と感受性」を大きな受容の基に喚起、刺激すべきだ。

この詩人は「若者よ」と外に向けて言っているように見えるが、この詩人本人こそが「未だその若者」であろう。だからきっとこの詩は、自分自身への応援歌なんだと僕は思う。ということはだから、これは傲慢な詩ではない。実直な作文だ。

で、

三宅氏はこれをたどたどしく朗読し、「言ってやった」と息巻いて改めて湯浅氏に問う。
「私はこれを読んで感動した!自分の尊厳くらい自分で守れと。どうですか?」
「それでハッパかけられる人ならいいんでしょうけど」
と、礼儀正しく拒絶した湯浅氏は、返歌として、ネットカフェで1年半暮らした18才の女の子の話をする。

<その女の子は毎日布団で眠りたい眠りたいと思いながらも、その追い込まれた状況を一身に受け入れてしまうこと(≒諦めること)で自分の精神を保ってきた。その過酷な状態から、彼女のような人々を助け、尊厳を保てるようにすることこそが社会の役割ではないか>

加えて湯浅氏は、大阪市の「学費滞納による高校中退者の増加」を例にとり、
<どこかで(社会が)修正しなくてはいけない。彼ら高校中退者は不安定な職につくことになり、もちろんそこから這い上がっていける人はいいが、そうでない人は「ごめんなさい」という社会ではないほうが、ずっと幸せな社会なんじゃないか>

つまり「生活保護を受ける手前に、セーフティネット(社会保障)としての公共事業の拡大、そのための財源として消費税をあげることを主張していたが、湯浅氏はやっぱり形式の話ばかりしている気がする。

18才の女の子に必要だった真の社会保障とは、公共事業の拡大でも生活保護でも派遣村でもなく、彼女を家に泊めてあげる友達、加えてその友達の親の良心であり、親戚であり、恩師であり、つまり「大人たちの良心」であり、人の横の繋がりであっただろうと僕なんかは思う。

□18才の女の子のエピソードに対して金さんはこのように答える。

<あなたのその、18才の女の子がどうしてネットカフェにいなければいけなったのか、その背景が伝わってこないのよ。だったらね、住み込みでもなんでも働けばいいし、福祉の勉強をするとか、そういった人間の成長段階として、努力する時期ってのは必要だと思うのよ>

こういう問題での金さんの発言は、自分の苦労を雛形にして、それを「全日本人(おそらく全人類ではない)」にまで飛躍させる「そこら辺のおばはん」の論理になってしまう。彼女の苦労は「外国人として生きる苦労」であり、「日本人の18才の女の子の断片的なエピソード」に対してことさら強弁すべきことではなかろう。
おそらく金さんは、日本に対しての思入れが強いあまり、情けない日本人を見ると、ついつい「そこら辺のおばはん」にまで視野が狭くなることがあるように思う。もちろん彼女の反骨心には敬意を表すけれど…。

で、今回金さんが一番言いたかったことってのは実際のところ、「湯浅氏の活動によって、生活保護受給者がどんどん増えていく(=私たちの血税)。そしてそういった「弱者」をメディアが報道し保護するために、彼ら弱者に疑義を唱えられない状態になっている。これは不健全であるし、あなたの責任でもある」ということらしい。

それに対して湯浅氏は、「18才の女の子は親に性的虐待(レイプという言葉もわざわざ使い)を受けていて、家出をした」と、「金さんが知りたがった背景」を語るが、
「あ〜たが出すのはね、極端な例なの」
と金さんはケシ粒のように払いのけ、
「あたしはね、普通に働いて、普通に生きてくのが大多数だと思うわけ」と話を区切った。

ここに一つの断絶がある。

金さんはとことん「外国人の自分より苦労しない日本人」が嫌いなんだと思うが、それは彼女自身には意識されていないのだろう。おそらく知的には意識できていても(確か彼女は外国人の地方参政権付与については反対の立場だったように思う)、実際のところ、こういった強弁によって「彼女の思い」が見て取れてしまう。もちろんそこには「それほど日本を愛している」という感情がある。

□また、誰かが終身雇用制度の終焉が弱者切り捨ての元凶であるようなことを言っていたが、それもまたちょっと違和感がある。そもそも弱者ってなんだ? この議題では、「家もなく今日食べるものもない人々」ってことになるんだろうし、金さん流に言えば「それは極端な例だ」ってことになるんだろう。

ここで文章の一番始めに立ち戻れば、

そもそも<特殊な修行を必要とする曲芸師になって、一本の綱を渡る>ってのがおかしいだろう?ということだし、「強者と弱者」が明白にいるならば、そもそも競争なんてのは成り立たないだろう、ということだ。


  …

なぜ議論が、「日本人が失ったもの」への言及へ行かないのか不思議でならない。
対症療法ばかりで、それを提示して満足げになって、「自分自身は安全地帯にいる人々」をひたすら画面に捉えてしまう。
今の日本で、深刻な問題なのは、「教育」と「人間的モデル」の圧倒的な欠如である。
自分が安全地帯にいることを知らない人は、上記の詩人のように<自分の感受性くらい 自分で守れ>などと平気で他人にぬかす。己の感受性を己のみで守ってこれたとでも言うのか。さらに<ぱさぱさに渇いていく心>に<自ら水やり>をしてきたなどと豪語する。厚顔無恥も甚だしい。
ずいぶん昔、古館伊知郎の「分かりません…」という言葉に言及したことがあった。ある事柄に対して当事者意識をもっているかいないか、その違いがある、ということを言った気がするが、そうじゃないかも知れない。
とかく、古館伊知郎の「分かりません…」には自らをも突き刺す悲哀の情はなかった。「二種類の分かりません」とは、その悲哀のあるなしである。
この、
<ぱさぱさに渇いていく心>に<自ら水やり>をする、という行為は、本来これほど虚しいことはない。そこには不毛な自己完結と絶望感が漂い、「生きる」ではなく「生き延びている」という感が強い。
現在問われているのは、いったいその<水>はどこにあるのかだと僕は思う。その<水>は誰がもっているのか、どこから湧いて出た<水>なのか。
例えばその<水>は「わたし」の中から湧き出る。「わたし」の中に水源がある。けれど未熟な「わたし」はその水源を掘り当てることが出来ない。その採掘作業は、まるでこっそり外から卵にヒビをあけてくれる親鳥のように、人生の先駆者の手助けを必要とする。未熟な「わたし」は常に渇く。いくらでも水が欲しい。人生の先駆者は、未熟な「わたし」が枯れないように知らず知らず<水>を与え、それがまるで呼び水のようになって「わたし」の<水>はどんどん湧き出し、次第に良質な循環を始める。<水>の源が「わたし」にあるならば、おそらくそういった循環によって回転し始める。

けれど、未熟な「わたし」の水源を所有しようとする人生の先駆者もいる。未熟な「わたし」は水源の発掘作業を手助けしてもらったことをなぜか知っている。なぜなら「わたし」を担当した人生の先駆者がさも恩着せがましく、「それは私が掘り当ててあげたのだ」と事あるごとに告げたからだ。「わたし」の<水>は人生の先駆者のために使われる。「わたし」の<水>は私の所有ではない。「わたし」は枯渇している。それが常態であるから、特別不幸だとは思わない。
けれどある時、例えば「わたし」が18才とか20才になった時、「わたし」は枯渇したまま放り出される。18や20は、外の世界では「大人」と呼ばれるからだ。
「わたし」の水源は良質な循環を果たしていなかったので、やがてじり貧になる。
そもそも良質な<水>の循環は、一人では起こせない、必ず他人の手助け——親であったり、親的役割をする人物の「参加」——が必要不可欠であるが、未熟な「わたし」の水源は、彼らの枯渇を癒やすためだけに費やされてしまった。

<ぱさぱさに渇いていく心>に<自ら水やり>をするというのは、そんな「わたし」達には生命維持である。
<ぱさぱさに渇いていく心>に<自ら水やり>をするというのは、そうでない「わたし」達には活性である。

上記の詩人は、そもそも<水>の在処に無関心である。
この無関心こそが、「安全地帯にいる人間」の特徴かと僕は勝手に思っている。
日本が失ったもの。
それは「人間(日本人)を人間(日本人)に育てるノウハウ」であり、文化であると痛切に思う。

□湯浅氏が、<弱者の最悪の帰結である自殺>の問題を話したとき、桂ざこば師匠が、自分の父親が「自業自得」で自殺をしたエピソードを話した。彼は湯浅氏に「自業自得で死ぬ奴もおるんや。あんたは俺の親父を救えたか!?」などと詰問し、さらに自分の母親とその住居である長屋での貧乏生活の話題をし、要するに「今はどれだけ恵まれているか」を主張する。

ここにまた、典型的な時代の断絶を見る。

今は、物質的には恵まれてはいるが、「同じ境遇を一緒に体験できる近しい人々や大人」には恵まれていない。例えば映画『スラムドック$ミリオネア』で描かれるインド、スラム街の子ども達の輝かしい瞳と、教室で一人静かに首を吊る日本の小学生と、さて、いったいどちらが過酷なんだろうか。「生きる使命があって自由がない」のと「自由があっても生きる使命がない」のはどちらが過酷なんだろうか。いや、どちらが「より生きてる」のだろうか。

□ちなみにざこば師匠が、
「や、うちの師匠にあんま貧乏自慢すんなって言われてんや、あかんかったら切って下さい」
と言っていたが、そもそも「貧乏自慢」てのは、なんなんだろう?
ざこば師匠の表情から見るに「そこまで不幸な話をしたら、誰もなんも言えなくなるだろ?」って意味のように思える。なんというか「熱くて冷たい“過去”の話題」なのか。

いわゆるこの「貧乏自慢」というのも、今や羨望の眼差しであることをざこば師匠は知らない。
現代の貧乏自慢には、もはや「その境遇を同時体験している他者」は存在しない。ざこば師匠の「貧乏自慢」のさらに下に現代の貧乏自慢は存在しているが、なかなか表面には出てこない。なぜなら語るべき自慢人は死んでしまうか、刑務所に入っているか、ただの陰気でイヤな奴で誰も話を聞かないか、逆になんだか陽気すぎて他者に警戒心を湧かせるような奴で、彼自身そんな貧乏自慢なんかは自己崩壊の恐れがあるからゆめゆめしないか、いずれにしろ、なかなか水面に表れるものではないように思う。

いや…、

「貧乏自慢」とは結局、「こんだけ苦労したからこそ、今の安泰があるのだ」という自慢かも知れない。つまり「この安泰は、あの貧乏を乗り越えたおかげや!」であり、「おまえにそれが出来るか!?」であって、ということはその貧乏や不幸は、彼にとって必要なプロセスだったと彼自身が自覚しているということかも知れない。
そうだとすると、それを聞いている側の反応は
「すごいですね…」とか「う〜ん」になる。
つまりやっぱり「そこまで不幸な話をしたら、誰もなんも言えなくなるだろ?」になって、これがやっぱり「不幸自慢」なんだろうかと思うが(あれクルッと回った?)、実際ざこば師匠の話を聞いた僕の感想は、

「素晴らしいですね…」

だったり

「いいな…」

なので、

やっぱり「不幸自慢」とは思えない。(クルッと回った?)



□まったく文脈なんか無視してここに来て白状するが、実のところ私はアルコオルを摂取しながら書いている。



□<近現代とは、安定した中世が終わったあとの過渡期だ>と他のテレビで誰かが言っていた。
<日本は江戸時代の頃に戻った方が良い>と言った人もいた。また<近代しか歴史がないアメリカと中国が、現在世界の頂点で手を組んでいる>と言った人もいた。

さて、「日本はどうなっていくんだろうか?」

その設問が「自分はどうなっていくんだろうか?」にリンクする若者は案外多いと僕なんかは思う。

現代の若者は「日本」に似ている。
僕もまたとても「日本」に似ている。
時には「世界」に似ていることもある。
そう感じざるおえない人は少なくないのではないか。尋ね歩いたことがないので分からない。

□いつか、福田首相の頃、このブログで、
<とりあえず次は民主党に政権を取ってもらうしかない。そしたら日本は昏睡状態の大手術になるだろう>というようなことを書いた記憶がある。つまり僕は、もう日本は一度死ぬしかないんじゃないか?と思っていたんだけど、いざ、どうだろう?と思うと、「日本を殺してから再生させる意志」なんか民主党にはさらさらないんじゃないかと今は思っている。

国も政治も企業も組織も家族も芯を失っている。

圧倒的な勢いでその危険が訪れる前に、むしろ自爆することをこの国は選べるのだろうか?自爆とはつまり、自己を否定し、己の血しぶきを己に浴びる覚悟が持てるかどうかであり、国民と呼ばれる私たちの覚醒なんだろうと思う。
けれど
そこには呑気で狡猾で邪魔な隔壁がある。
隔壁である彼らが静かに退場すれば、もしくは落語『浜野矩随』のご母堂のように、息子の将来のために自ら死を選ぶ潔さがあれば、日本の未来の展望もまた描きやすかろうと夢想するが、それは期待できそうもない。

何かを障壁と感じ、それを排除しようとする意志は、実は自らの中に問いかけている意志である場合が多いのだが、それがまさに眼前に顕在化しているならば、排他主義と言われども断行すべきであろうと勇ましく思う私もいたりする。
が、この論理で殺人もまた断行されうるのである。

などとまたクルリと丸まって


おしまい。
# by iwayu0507 | 2009-03-15 23:28 | □鑑賞日記
【鑑賞日記】7つの贈り物
あらすじ: 過去の事件により心に傷を負った謎の男ベン・トーマス(ウィル・スミス)はある計画を立てていた。親友のダン(バリー・ペッパー)にだけ打ち明けられた計画は、見知らぬ7人の他人に彼らの人生が変わるような贈り物をすることだった。そして計画実現のためには、その7人でなければならない特別な理由があった……。(シネマトゥデイ)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『幽霊となって蘇生を施す』

涙と苦悶から始まる。鑑賞後はただただ「重い…!」の一言。
この「重さ」が伝わるほど、ウィルの描写が、映画全体のバイオリズムとして良くできていたということでしょう。断片的にフェイクなしのヒントがばらまかれ、そのピースが最後にキレイに結集する映画ですが、割と賢しい人なら、かなり早い段階で結末の予想はできるでしょう。私は小賢しい人間なのでそうでした。
が、この小賢しさが余計にウィルに感情移入する装置となって働きます。主人公と私は、同じように「決まっている結末」に向けて進んでいくからです。胸苦しったらない。
でも主人公は結末で終わりだけど、私はその先も観るわけですから「重い」という感情は私だけに残る。主人公はもう結末しちゃったんだから。
ああ、重いな…!
だから私も軽くなるためにこの映画を評価します。

鑑賞後はすぐに「贖罪意識」か…。と思いましたが、どうやらそれだけじゃない気がする。「あの時」から主人公はずっと死んでいた。まるで幽霊のように過ごしていた。
不寛容な人間ならばこういうでしょう。

「あんな事故を起こした人間なんて屑だ!幸せなる権利なんてもうない!一生おまえは笑うことも許されないんだ!あん? おまえが良いことしたって? そんなのはただの自己満足だろうがボケ!」

こう言いたがる人、いますね。
人は自分の言葉で規定された世界に住みますので、こういう言葉を言い放つ自分が「同じ境遇になる可能性」を当然覚悟してていいはずですが、残念ながら普通の場合そこまでの覚悟はありません。こういう発言には「被害者には被害者の、加害者には加害者のドラマ」があることに気づけない、または知ってても分かれない、肉体化できない、そういった哀しさがあり、そこにもまたドラマがあります。

で、主人公は死んだように生きてきた。ああなればそれはそうなるでしょう。ああいう性格だし。
彼の行いはもちろん贖罪意識からでしょうが、それよりも彼の命によって被害者を蘇生させたかったんじゃないかと私なんかは思います。自ら命を絶つという「浪費」を彼は選べなかった。彼にとってそれはとても贅沢なことだったんじゃないのか。何よりも自分にそんな資格がないことを知っていたんじゃないのか。だから彼は「まだ」生きていたのではないか。
でもそれももう限界にきている。
もう彼には夢もなければ夢を持つ資格すらない。彼はそう思っている。
自分にできること。それは何もしないこと。人間的な喜びを得ないこと。日々が彼にとって贖罪であった。
この「計画」の前景には、彼のそんな姿があったように思う。
夕暮れの草むらで一人健やかに笑うシーンがあるが、彼はそうやって自分と対話してきたのではないか。自分の中の記憶と対話してきたのではないか。

彼がある女性と恋に落ちる。それは本当だろうか。
とても恋に落ちたとは思えない。(見た目は全くの「恋」や「愛」だけど)
その女性は彼に赦しを与えていた。私には彼がそう感じているように思える。
だから彼は泣くのだ。愛と赦しの狭間から涙があふれ出すのだ。その光景はこの映画の冒頭でも表れる。
近松門左衛門は、<芝居は肉と皮の間にある>と言ったそうだが、私は感情もまたその狭間にあると思っている。在りし日の桂枝雀は<肉付きの面>と言って内気な自分に陽気な仮面を被せ、ずっと嘘をつけばそれも真実になると実践していた。その分肥大した肉と皮の狭間で感情が圧迫されいつしか噴き出してしまう、その予測にもまた肉を被せて蓋をした、または感情が溢れそうなその割れ目をただただ掌で押さえ続けた。
肉と皮の間から感情が噴き出すとき。それは身体を真っ二つに引き裂く。まるで目玉の裏の水風船が突然割られたように、まるで食道や気管のどこかに設置された爆弾が突然爆発したかのように、それはまるで自分の声であって自分の声でなく、自分の感情であって自分の感情でないような、そんな驚くべき獣の咆哮をあげて噴き出す。肉と皮の狭間からの血は、その狭間をぐいぐいと押し広げ、やがては括約筋が死んでしまったかのようにぽっかりとした空間だけを残す。人はそういった空間があると、なぜか何かを収納したくなる。そこがとても寒く淋しく思うようになる。例えばそこに宗教を収納する人もいれば、恋人や子どもやお金や名誉を収納しようとしたりする。

この主人公の場合はなんだったろう。きっとたぶんその空間を覗こうとしていたのではないか。そしてその奥に彼は「それ」を見つけたのではないか。だから彼は「計画」したのではないか。

彼はある女性と出会い、「生きている人間」の本来性である「感情」をその空間に収納しようとしたが、それは「適合しなかった」。
それでも彼は、「もしも…」を語ることすら赦されてしまう。

なんて贅沢で残酷な時間を神は与えてくださるのだろう!

それは、彼が結末を決めたからだ。
だから彼は、「感情」は揺れて噴き出しても「結末と行為」だけはブレない。女性が好意を寄せてくれればくれるほどその「結末と行為」はいっそう固く厚くなる。
彼の「行為」と「感情」はおそらく完全に二分されていた。
私はだから、彼は「幽霊」だと評す。

少しでも人間らしく死ぬために、彼は彼にとって必要なことをした。彼にとっての「人間らしさ」はおそらく「宇宙的視野」をもっている。
「個と個」の愛情や償いではなく「生命と生命」という原始的な関係性において、彼は彼にとって「出来ること」を全うしたのだ。
この世界で生きてゆくべき者達に七つの贈り物を託した。もしかしたらそこには、「善い人達の一部となることによって自分自身を浄化する」という「祈り」の要素もあったかも知れない。

で、それによって彼はどうなったろう。
ほんの少しだけ「宇宙」に対して借金が返せた気持ちになったのだろうか…。

ちなみに私はこの映画をあまり好きではない。
こんだけ書いたわりにこの物言いは何なんだろう。

たぶんそれが私の良心であろうと思うが、少しばかり近親憎悪の嫌いもある。

関係ないがふと思う。演劇であれ映画であれ音楽であれ、作品というのは私の心をノックする。作品が私にノックしているので私はそれに応える。私はそれを評論しようと全く思っていない。私はドアを開け作品の顔を見る。その顔が人間の顔をしてる場合もあるが、ただの文字や記号や実験の顔をしてる場合もある。後者の場合、私は少し微妙な表情になる。「それ」を迎え入れるスープを私が用意できないことを知っているからだ。けれど「それ」は恭しく入室してくる。私も「それ」を礼をもって迎え入れるが、やがて「それ」は私がいっこうにスープを出して歓迎しないことに不思議そうな表情をしてみせる。私はその表情によっていつの間にか自分が「歓迎しなくてはいけない立場」に立たされていることを知る。
私が準備しているスープはとても平凡な家庭料理でしかない。食卓で互いに食事を持ち寄りそれに興じ、時には喧嘩をし、愚かな自分をさらけ出し、「人間は弱い」という当たり前を確認し合い、これまでのことやこれからのことを話したい。私にとって「作品に触れる」とはそういうことでしかない。人間や人生や世界や自然に対して「学者」や「研究者」にはなりたくないしなれない。

映画というのは私にとっては私との対話であり、演劇は他者(≒鏡写しの自分)との対話になる傾向がある。
いずれにしても私はバカ正直に胸襟を開いて迎え入れるので、その分失望することも多い。私のドアをノックする音が「ドアの前に整列せよ」という響きだったり、「新製品の営業」である場合はよっぽどそうである。

おしまい
# by iwayu0507 | 2009-02-21 14:22 | □鑑賞日記
【鑑賞日記】ベンジャミン・バトン 数奇な人生
あらすじ: 80代の男性として誕生し、そこから徐々に若返っていく運命のもとに生まれた男ベンジャミン・バトン(ブラッド・ピット)。時間の流れを止められず、誰とも違う数奇な人生を歩まなくてはならない彼は、愛する人との出会いと別れを経験し、人生の喜びや死の悲しみを知りながら、時間を刻んでいくが……。(シネマトゥデイ)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

試写にて。公開は2月7日。

ある人が「障害者が出てくる芝居を書いてはいけない。それは嫌でも同情しなければいけない作品になってしまうからだ、それは反則だ」ということを言っていたのを思い出す。
当時わたしはそれに違和感を覚えた。その人は差別を許せない性格だと公言していた。
私は、「誰かを無警戒に同情する」ことは恥ずべき行為だと思っている。

ふとそんなことを思い出した。

私はこの映画の前半がとても好きだ。
作品が同情の表情を見せずに登場人物たちを複眼的に描いている。(同じ意味で『ヘルボーイⅡ』や『オアシス』も好き)そして全ての登場人物の人生が、ベンジャミンや私に「生き方」を教えてくれる。

「弱点で勝負せよ」
とは誰の言葉だったか。

人の運命というのは時に不条理によって蹂躙される。
<おまえはそれに怒り狂い、ののしることもできた>
それでも最後の瞬間には
<忘れてやれ>
繰り返し映画は呟く。
ハチドリが飛ぶだけで無限という奇跡を表現しているように、
どんな人の人生も無限の奇跡を表現している。

人生にはさまざま局面がある。そしてどれも幸せであり不幸である。
どの生き方を選ぶのも自由だ。そしてそのどれにも幸せと不幸がある。
それを受け入れろとは言わない。その道が不幸で不運ならば、それに怒り狂い、ののしることもできるし、そこから変化することも、そこに留まっていることもできる。人生にはルールはない。
ただ、
<もし自分の道に誇りが持てないと気づいたら、やり直す強さをもって欲しい>
人生はどこから初めてもいい。
年齢などは関係ない。今そこからやり直したっていいんだ。
それはみじめなことではなくて、強さだ。

世の中はどんどん性急になっていく。
子どもはすぐさま大人になり、老人になり、世界を達観する。大人はいつまでも思春期から逃れられず、またはすぐに老人になり、子どもになる。この性急なプロセスに自分が乗り切れないと、自分が劣っているように思えてくる。人生という性急なプロセスから脱落し、落伍者となる。そういうレッテルを自分自身に貼る。
人生を生きる上での社会的、技術的な強さと、人間として生き、人を育てる上での強さは違う。昔、ある劇作家が「自分だけが救われればいい」と私に話してくれたことを思い出す。その正直さを私に見せてくれたことに感謝しつつも、そういう方が信頼や差別という言葉を口にすることに違和感を覚えた。
自分を軽蔑できる強さ(自分を軽蔑できなければ成長などはしない)、そしてやり直せる強さ。その強さこそ「人間らしい」と私なんかは思う。

<何が訪れるか誰にも分からない>
けれど
嵐の中にハチドリはいる。
困難の中にハチドリは訪れる。

<奇跡と言っても人間が見たくない方の奇跡>
そういうものも時には訪れる、悲しいけれど。

生きること、そのモデルをたくさん教えてくれる貴重な映画だと思う。
# by iwayu0507 | 2009-02-01 01:58 | □鑑賞日記
【鑑賞日記】
高屋七海が出演しているお芝居(猫の会その2『クツシタの夜』)を観劇。
芝居を観るのは本当に久しぶりな気がする。演劇というのはチケット代が高い。高いなぁ。今回はご厚意でご招待を頂く。たいへん助かる。
ちょこっと感じたことがあったので書き留めておこうと思う。(※観劇レビューではありません)

1言葉について。
2それに伴う、戯曲に対する批判性について。

1:言葉について
つくづく私は台詞を聞かない観客だと思った。今回に限らず、私はあまり芝居の台詞を信用しない。というか言葉を信用していない。だからといって話しの筋が分からないのかというとそうでもなくて、なんとなく分かる。はっきりとは分からない、台詞をちゃんと聞いていないから。基本的に私は視覚チャンネルが優位に働くので、場の人物の配置、距離、視線、表情、仕草、背中の感じ、はたまた舞台に落とす俳優の影、それから聴覚チャンネルを経由してイメージに変換される声のトーン、大きさ、イントネーションなどから情報を得ることが多い。私にとって台詞の情報はそんなに重要ではない。
言葉と身体がぶれている時には、台詞はあまり聞こえない。
言葉と身体が一致している時に、台詞は聞こえてくる。

「言葉と身体が一致している時」を自己一致というが、実際そういうまともな人間は芸術では扱われない。だいたいが「変な(状態の)人」が出てくる。でなければ作品にも人物にもドラマがない。つまり概ね作品には言葉と身体がぶれている人物が出てくる。なので私には台詞が聞こえてこない。というか素直に入ってこない。
なぜなら「身体が本当のことを言ってるから」「言葉によって何かを防衛してるから」「言葉では対象Aを攻撃してても、実は別の人物(自分も含めて)を攻撃してるから、または別の何かを訴えているから、または言おうとしてたことを途中で諦めて軌道修正した結果だから、またはそれによって自分自身や他人を煙に巻こうとしてるから」…
台詞を聞きながら同時に身体を観る。「作品の身体」を観る。それを観ていると次第に演出家や劇作家の「身体」が見えてくる。どんなに言葉で自分を隠そうが、「身体性」は隠しきれるものではない。私はいつもそれを観ようとする。私にとっての演劇の面白さはそこにある。

言葉というものは哀しい。

言葉は、情報を伝達している内が華で、いざ気持ちや真意を伝えようとすると途端に哀しくなる。いくら言葉を重ねたところで「伝えたい何か」を伝えることは決してできない。
言葉というものは哀しい。
「伝えたい何か」を伝えたと思った途端、まさにその瞬間に瓦解し肥大し散乱する。
言葉というものは哀しい。
その哀しさによってまた言葉を重ね、誤解を招き、それにまた言葉を重ねる。または諦め中断する。そこで交わされる言葉は「沈黙」と呼ばれ、一番多くの情報が得られることもある。言葉というのものはそのように哀しい。
言葉は手段である。
言葉を伝えるのが目的ではない。言葉が伝わらなくても「伝えたい何か」が伝わることが目的だ。「伝える」ことが目的だ。つまり言葉は関係性を繋ぐ一時的な橋であり、虹である。
言葉は行為に従属する。
雄弁な身体を隠すために言葉が活躍し、雄弁な身体を実体化するために言葉が使われる。言葉より先にあるものは、雄弁な身体であり行為である。

そのように思う。

だから余計に言葉は哀しい。
私が長い台詞を書くのはそういう事情がある。

私は「ある何か」を伝えるために35000文字を費やす。あるときは40000文字以上を費やす。詩人ならたった3行で書き上げるかも知れないそれを、私は多くの言葉を重ねることで肥大させ、やがて瓦解し混沌となる。それによって言葉が哀しいということを表現しているのではない。言葉は信用できないが、それを説明するためには言葉が必要であるというこの矛盾がそのままただ表れているに過ぎない。それは言葉に対する愛憎の念だ。
言葉は、そう、言葉だ。
私は当たり前のことを言っている。
だから私は俳優の身体を観る。
映画と違って演劇のいいところは、好きなところを好きなだけ観ていて良いというところだろうと思う。芸術を評論することは私の領分ではない。


2:それに伴う、戯曲に対する批判性について。
五年ほど前だったか、私がある公演に参加していた時、どうしても台詞の覚えが悪い現場があった。私も若く意固地なところがあったが、どうしてもその戯曲に与することに抵抗があった。その戯曲はある一つのテーゼを訴えるために、登場人物たちを不当に精神性の低い状態へと押し込める嫌いがあった。と書くとまるでプロパガンダ作品みたいだけど、簡単に言えば「低い精神性のテーゼを訴えるために、周囲をさらに低い精神性に、つまりバカにする」という作品だと感じたのだ。「バカになあれ!」と魔法でもかけられたように登場人物はバカになる。バカになり続ける。それが私の中で許せなかった。もちろんバカでも「ただの道具」でなければ大いに結構なんだが、私にはこの「魔法」が許せなかった。だからどんなに台詞を覚えようとしても無意識に抵抗して剥がれてきてしまう。そんな現場がかつてあった。
台詞を言うことが苦痛だった。苦痛だから言葉がさらに剥がれる。剥がれちゃったら困るのは私なので、接着剤で必死にくっつけようとする。稽古場は私の台詞で何度も止まった。
「ごめん、…なんとかする…」
私は台詞と私の凸凹を探す。どこかにピッタリする場所があるはずだ。なければ作るしかない。それらは結構大変な作業だけど、俳優というのはそういうものである。その時後輩の女優が苛立ちを裏面に保ちつつ冷淡にこう言った。
「なんとかして下さい」
今でも覚えている。びっくりしたからだ。
技術だけでやってきた俳優にはこういうところがある。

で、私は結局この戯曲を批判する形で存在することに決めた。ようやっと凸凹を決めた。
「バカになあれ!」という魔法を、身体を使って解く。当時の演出家は私が何をやっていたのか最後まで分からなかったかも知れない。
私は「私に対して、そして周囲に対しての復讐」という意味で「バカになあれ!」という衣装を着ている演技をした。つまり戯曲に書かれた私の台詞はほとんどが嘘であるか復讐の言葉であると解釈したのだ。
批判的に戯曲に取り組むと、薄い作品はとうぜん厚みを増す。
その時のその台詞は、私という俳優の身体を通して防衛機制としての役割を得たに過ぎなかった。私は台詞と逆のことを伝えようと試みていた。
言葉というのはそのような形でもなんだか哀しい。

ときに、批判と冷やかしは違う。
明らかに台詞を冷やかしバカにしている俳優が、不思議と舞台上で自由に見えることがある。時にはまるで「お笑い芸人」のように見え、「俳優自身」が場の空気を読んで反応しているように見える。それは自由で「芸達者」で面白いけれど、なんだろう、魅力がない。魅力が持続しない。

なんでだろうと思う。

「さあこれから彼による嘘をつく演技が始まるよ!」と、簡単に先回りして拍子でも打ちたくなる俳優がいる。こんなにも自由で「芸達者」で面白い俳優なのに。
けれどその俳優には葛藤がない。
葛藤すら「芸」に見えてしまう。だからやっぱり「さあ葛藤の演技をするよ!」と拍子を打ちたくなる。そのようにしてこちら(観客)から簡単に先回りされてしまう。

「別に先回りされたっていいんですよ、だって面白ければいんだから」

うん、そう言われてしまえばそうか、うん、それならいいか。
と思ったりもする。
するがしかし、それを私は面白がれない。
私は、俳優や演出によって制御統制されたメッセージをそのまま受け取ることをつまらなく感じる。かと言って制御統制されていないメッセージをそのまま受け取ることは億劫に思う。
私が面白いと感じるのは「この間」にあるんだろうと思う。
「この間」を表現しようとするものは、一つ残らず「自らの血の匂い」がしている。
一方でその「血」を表現しようとする作品もある。それを私は「血への耽溺」だと思いため息をつくこともある。
私にとっての「血」とは手段でありプロセスであり墨汁である。

自分を傷つけてでも「何か」を表現しようとする作品だけを私は観ていたい。


おしまい。
# by iwayu0507 | 2009-02-01 01:32 | □鑑賞日記
【鑑賞日記】
こっそり書散らかした感想文の一部を放出します。
基本的に僕は、映画であれ演劇であれ本であれ学問であれ、自分の人生に役に立つかどうかを重要視しています。その際に観るのは—ニーチェの言葉を借りれば—作品という<火花>ではなく、それをたたき出す<精神という金槌>です。火花のキレイさという技術的な美より、金槌自体の真摯さに胸を打たれることが多いようです。

時季外れの半端物なので品質の保証はできかねます。
ま、たいしたことは書いていません。
ていうかほとんど煎餅片手にもって書いてますね。
(なんつって、こんなこと書くから僕は僕に軽蔑されちゃうんですよねえ。おだまり!)

最近の文章もあれば古い文章もありますが、順不同でどうぞ。

『耳をすませば』
『人のセックスを笑うな』
『包帯クラブ』
『潜水服は蝶の夢を見る』
『ラースと、その彼女』
『ハプニング』
『SECRET SUNSHINE/密陽』
『地球が静止する日』

2009年01月17日 岩崎裕司
# by iwayu0507 | 2009-01-17 05:09 | □鑑賞日記 | Trackback(4)
【鑑賞日記】耳をすませば
解説:  宮崎駿がプロデュース、『火垂の墓』『魔女の宅急便』で作画を務めた近藤善文が監督にあたった青春アニメ。中学生の男女が繰り広げる淡い恋愛模様を、さわやかなタッチで綴る。思春期の不安や、複雑な乙女心、将来への不安と憧れなど、恋愛ストーリーの定番的要素を瑞々しい人間ドラマとして昇華。劇中劇として登場する、『イバラード博物誌』の井上直久が手掛けた幻想的な美術も素晴らしい。本が大好きな中学生の少女・雫。彼女はある時、図書カードに何度も連ねられた男子の名を見つける。その男子・天沢聖司の名に、淡い恋心を抱く雫。だが実際の天沢は、ぶしつけで粗野なヤツだった・・・。(allcinema ONLINE)

ーーーーーーーーーーーーー
『二年に一度は補填して』

実りそうで結局実らなかった経験ばかりの私。
ああ、こんなレンアイしてみたい!と妄想ばかりしていたあの時の私。
「おつきあい」なんて言葉では知っていても一緒に下校すること以外なにをするのか不思議だった私。
二つ隣のクラスの子が私のことを好きだって噂を聞いたあの時の私のドキドキ。
それでも「受験だから…」と邪険に扱った私。

自分が経験できなかった甘酸っぱいと言われているレンアイを、
この映画に補填されてるようなそんなこっぱずかしい癒しを感じます。
ああ、恥ずかしい。

今の私なんかは、ええ、

レンアイする基準が「果たしてこの方と毎日一緒に生活ができるのだろうか?」ではかってますし、
優しい方ほど「その実傲慢で無頓着で感情的にだらしないのではないか?」と疑ってかかりますし、
夢を語る人ほど「この方の夢を支えて生きていけるほど自尊心低くないし」などと自律した大人っぽくなりますし、
結局はそう、「身の丈の相手が一番!」なんてひっそり言い聞かせてますし、

ええ、そんな具合ですわ!

それでもなお、「ああ、こんなレンアイしてみたい」と思ってしまう。
この映画を観るとそんな恥ずかしい気持ちがまだまだ疼いていることが「私に」バレてしまう。
だからせめて映像の中の彼女たちに応援をおくってしまうのです。
「幸せになれよ〜!(ヘイ、カモン、ヤマビコ!)」

もちろん

自分が自分を応援してるってホントのことは「私」には秘密にして。
知ってるけど知らない振りして。

はぁ〜あ。

この映画を「別に」って言える方が正直羨ましいですね。
# by iwayu0507 | 2009-01-17 04:32 | □鑑賞日記
【鑑賞日記】人のセックスを笑うな
あらすじ: 美術学校に通う19歳のみるめ(松山ケンイチ)は、39歳のリトグラフの非常勤講師ユリ(永作博美)と恋に落ちる。友人の堂本(忍成修吾)に問いただされ、みるめは彼女との仲をうれしそうに告白するが、いつもつるんでいる仲間のえんちゃん(蒼井優)の顔は曇ったままだ。だが、実はユリが既婚者であることが分かり、みるめは混乱する。

ーーーーーーーーーーーーー
『笑うな?じゃあ見せなさんな』

■劇的に淡々とした中で、劇的な日常を劇的な自然体で生きる劇的な若者の劇的な青春風景を劇的に優しい眼差しで追いかけていく映画です。劇的にぼーーっと何も考えないで見たい方、劇的に自分の青春時代を懐古したい方におすすめ。

・見始めて開始20分…「なんか無駄に長そうな映画だなぁ」と思ったら、やっぱり2時間以上もあった。

・見始めて53分…俳優達の特に面白くもないエチュードを見せられ続けて気が滅入ってくる。

・見始めて1時間10分…「まじめにやれ!」と思う。劇的なナチュラル演技のために、台詞が聞き取れない。「ここに黙って座って鑑賞してるその上に、オレにどんな努力を強いるつもりなのか!」と憤慨する。

・見始めて1時間36分…ついには、登場人物とか映画の世界観よりも撮影現場の雰囲気しか伝わってこない身体になってしまった私。

・見始めて1時間39分…「もういい加減にしろよ…」と力なくため息をつく。

・見始めて2時間15分(エンドロール)…『人のセックスを笑うな』
これだけ「見て見て!」やってて「笑うな」とは笑止千万ですな。

久しぶりにバカにされた気分になった映画でした。
傲慢な監督だなぁ…。会ったことないけどこの監督嫌いです。
# by iwayu0507 | 2009-01-17 04:26 | □鑑賞日記
【鑑賞日記】包帯クラブ
あらすじ: 大切なものが少しずつ失われていく毎日に、嫌気がさしている女子高校生のワラ(石原さとみ)は、ある日、病院の屋上のフェンスを乗り越えようとする。そのとき、奇妙な関西弁を話す入院患者の少年ディノ(柳楽優弥)が、突然ワラの前に現われる。手首に傷を負ったワラの心の傷を見抜いたディノは、ワラの手首からほどけ落ちた包帯をフェンスに結び付け……。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『酷評が憚れる映画』

安易に酷評することが憚れる映画のような気がする。
そして同時に安易に「よかった」とは絶対に言いたくない映画でもある。
前者は世間体として。
後者は私の感情として。

彼らの行動云々の是非はよく判らないが——ま、包帯の写真撮ったら現状復帰すればいいんじゃないの?という真っ当な疑問はあるけれど——「人は癒やされるものだ」「人には癒しが必要だ」という方向に疑問もなく進んでいる映画のような気がする。

そしてそれが単に「疑問もなく進んでいる映画」だったら簡単に無視できるのだけど、この脚本はあざとい。
確信めいた台詞の後には必ずそれを否定する台詞を誰かに言わせて世間的なバランスをとろうとしている。
ただ、そのバランスはその場限りのもので、結局は「疑問もなく進んでいく」。

この世間に対しての「あざといバランス感覚」が、酷評することに憚りを起こさせる。
詐欺師のやり方に似ている。

「思春期」という最大の担保なくしてはこの映画は成立しない。
しかしながら、扱っている「心の傷」というテーマはそんな限定された層の問題ではない。
この映画を高評価する方が『シークレット・サンシャイン』という映画を観たらどう思うのだろう?

正直私は「こういうことで癒やされる人がいるんならいいんじゃないか」と思うのだけど、

心の傷というのは基本的に
「癒やされたいけど、そう簡単に癒やされたくない」
「救われたいけど、そう簡単に救われたくない」
「分かってもらいたいけど、そう簡単に分かってもらいたくない」
もので、
さらにそのように思っている自分にすら気づけていなかったり、気づいているからこそ、自分の矛盾に苛立ったりその矛盾をないことにしたり、自覚もできないほどののっぺりとした絶望の淵に落ち込んだりするものだ。

この映画はリスカ止まり。
この映画は狂言自殺止まり。

それだって構わない。
リスカも狂言自殺も真剣に取り扱えばいい。
けれどそれが頭打ちでは、やっぱり「思春期向けの映画」でしかない。
「思春期という担保」と「世間へのあざといバランス感覚」で成り立っている映画でしかない。

この映画で素直に癒やされちゃった人とは友達になれないかも知れない。
いや、なれるかも知れないが、きっと頼りにはできない。
# by iwayu0507 | 2009-01-17 04:08 | □鑑賞日記
【鑑賞日記】潜水服は蝶の夢を見る
あらすじ: 昏睡(こんすい)状態から目覚めたものの、左目のまぶた以外を動かすことができないエル誌編集長ジャン=ドミニク・ボビー(マチュー・アマルリック)。意識ははっきりしているにもかかわらず言葉を発することができない彼に、言語療法士のアンリエット(マリ=ジョゼ・クローズ)はまばたきでコミュニケーションを取る方法を教える。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
『強靱な男による、恵まれた人生』

正直飽きてしまった。
フランス語が私の集中力を妨げるのか?
むしろ醍醐味であるこの映像美がそうさせるのか、
私にはよく分からないけれど、
う〜ん…特に?ボヤッとした印象の映画だ。
そして同時に首をひねる。

どう見ても何か少しでも心に響いてもいいはずの題材(しかも実話!)なのになぜに響いてこないのか?

おそらく私にとってのこの映画は

とても強靱な精神力と、献身的な医療スタッフ、友人、仕事仲間、そして家族の愛に支えられた男が
、左目一つで人生最後の偉業を成し遂げる「とても幸せなで恵まれた男」の話、
と感じたからだ。

死は誰にでも平等に訪れる。
その今際の際でどう振る舞うか?どう「死」及び「生」と対峙するか?
そこに一人の人間の集大成が現れ出ると思う。
この主人公の場合はどうだったか。
物語の始めの方にこんな(ような)ことを言ってのける。

「もう自分を哀れむのはよすことにした」

ここで私の心は映画から離れた気がする。

さらに中盤にはこんな台詞

「私にはまだ残されているものがある。想像力と記憶だ」

なんて強靱なの!?
強い。強い人だなぁ!



そこから先は
「とても恵まれた強靱な精神をもっている男」が
人生の最後に惨めな状態になろうとも
それに打ち勝ち
「人間性」を捨てず
自分に残された可能性を駆使して必死に生き
素晴らしい友人たちに囲まれて
素晴らしい仕事仲間の協力で
素晴らしい本を完成させて
素晴らしい評価を得て
素晴らしい生き方だったと、
後生の人々の手本になるような人生の教えを授ける
そんな強靱で恵まれた人の大往生。

もちろん「実話」という迫力は、映画の背後にある。
だからこそ逆に
「正直面白くなかったけど実話ってことはそれなりの評価を…」
と私なんかは怯んでしまいそうになる。

だけれど、それでもしかし、あえて言いたい


タァ〜イクツでしたぁ〜…


唯一心が震えた場所は
主人公がお父さんのヒゲを剃っているシーンだけでした。

きっと単純に私は、この映画に参加できない感じがしたんだと思う。
だってこんだけ恵まれている人間のすごい話を聞いたって私の人生の参考にならないもの。
遙か遠くの戦争を憂いているような、そんな眼差しでしか私には見ることできなかったもの。
なんだか眩しい話だったもの。(単にカタルシスの問題なのだろうか…?それもなんだか腑に落ちないけど)

もちろんこの映画からたくさんの人生訓辞をピックアップすることは可能だ。
けれど私の身に染みないものは仕方ない。
それを数えて賞賛しても徒労に終わるだけだ。
# by iwayu0507 | 2009-01-17 03:53 | □鑑賞日記
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